A . A . fromnow Human Report  第一項 シュタイナー年表/年譜・遺言書

ルドルフ・シュタイナー
(fromnow作成)ルドルフ シュタイナー
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(fromnow資料)《シュタイナーの幼児期》 (fromnow資料)《シュタイナーの青春期》 (fromnow資料)《ワイマール時代のシュタイナー》 (fromnow資料)《40代のシュタイナー》 (fromnow資料)《50代のシュタイナー》
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最初の妻/Anna Ita Wegman 二度目の妻/Marie
ルドルフ・シュタイナーに関わった三人の女性


ルドルフ・シュタイナー
1861-2/27 - 1925-3/30

A.A.fromnow 資料 【ルドルフ シュタイナー】
Albert Steffen Rudolf Steiner Ernst Uebhi

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人間・ルドルフ シュタイナー年譜・年表 / まえがき



ルドルフ・シュタイナー

1861-2/27 - 1925-3/30

『 シュタイナーが生きていた”時と場の背景” 』


1800年代中期〜1900年代前期 ヨーロッパの中世及びルドルフ・シュタイナーの生きていた19世紀〜20世紀初頭の頃は、欧米の多くの思想家・哲学者・心理学者などが、メガ宗教の古典主義や教条主義的な思考に物足りなさを感じ、 新たな思想・思考を模索し、既存宗教の先にある”もの”を探っていた時代背景があります。

その中での神秘主義思想の大きなウネリは、シュタイナーの時代より少し前に成りますが、ラルフ・ワルド・エマーソン ( Ralph Waldo Emerson / USA 1803〜1882)を中心に超越主義運動が、アメリカやヨーロッパで起こります。 超越主義 ( トランセンデンタリズム ) とは、19世紀はじめ、アメリカのニューイングランド地方で多かったユニテリアニズムの古典主義・合理主義的思考に飽き足らずに「永遠の魂・霊的世界」 を基軸に物事を考えようとする当時の新しい思想のことで、ロマン主義的でもありました。
Emerson


この時代のドイツでは社会主義労働者党が結成されているが、直ぐに帝国主義が蔓延り、社会主義者鎮圧法が制定されています。 その後、シュタイナーの死後(1925年3月30日没)になりますが、1929年のニューヨークでの株の大暴落による世界恐慌から、かの悪名高い・アーリア民族主義者のヒトラーが、1933年に政権を取り、1939年にはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まっている。
フランスではナポレオン3世 【ナポレオン一世=ナポレオン・ボナ・パルト:(1769年 - 1821年)】 が皇帝になり、 米国では南北戦争〜リンカーンの奴隷解放・リンカーン暗殺、そして、ロシア革命が起こっています。
この時代の欧米の思想的背景は、ロマン主義、実存主義、シュタイナー誕生の直前の1859年にチャールズ ダーウィンの「種の起源」が発表され、自然科学の基礎的な確立期を迎えます。
------ その後、民族主義的思想が台頭してきます。
尚、ドイツの建築家・ブルーノ・タウト氏は、ヒトラー/ナチスに共産主義者のレッテルをはられ、暗殺から逃れる為に”日本”に亡命しています。 その彼が、シュツッガルト工科大学で建築を学んだ久米権九郎氏の案内で埋れていた桂離宮の素晴らしさを発見し、世界に広めています。



参考までに、日本は幕末〜明治維新〜戊辰戦争(1868年 - 1869年)、日露戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦〜テロの時代(血盟団による暗殺や5・15/2・26事件)を経て、満州事変・第二次世界大戦期へと時が流れている。 
・・・・・・ 日本も世界も”大激動期”でした。
世界中が文化から文明へ・精神から物質への大きなうねりの時代/思想的混乱期でした。 
そして、迫り来る大小の戦争の足音を聞きながら”シュタイナー”は、生まれ・生きたわけです。


それに、Georg Wilhelm Friedrich Hegel(ヘーゲル)/1770年〜1831年やJohann Wolfgang von Goethe (ゲーテ)/1749年〜1832年などの大思想家の没後・すぐ後に生まれてきたのも、シュタイナーの人生/思想に影響を与えたのではないでしょうか。



シュタイナーの叙述・思想を学ぶ前には、彼が生きてきた時代背景を知ることも必要ではないかと考えましたので、主要点を記載しておきました。



≪参考1≫ ”場”と”時代背景” − 霊性

宗教学者/哲学者の鈴木大拙氏は、人間が生まれ育った「場」に存在するものが人間の心の無意識の核を形成しているといい、そういう言葉以前の無意識性を「霊性」と表現している。 そこには、当然・その「場」が持ちうる”時の要因”も反映する。
そして、感覚の働き、五感の動きから来る働き、その二つが区別できない状態を「霊性」といい、この「霊性」には宗教的な意味合いが強く含まれ、意識と無意識との持続状態や分別智と無分別智が混融してしまったところの心の状態でもあるという。
言ってみれば、人としての源、全ての宗教的意識の根底にあるものを「霊性」と述べている。


≪参考2≫ トーマス・マンの”ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe )”に関する論文

『個性!・・・・ ゲーテはそれを”人間の最高の幸福”と呼んだが、個性とはそもそもなんであり、如何なる事情のもとにあり、その秘密の本質とはどんなものであるのか ・・・?
確かなのは、”個性”というこの言葉、この現象を前にする時、我々が単なる精神的なもの、理性的なもの、分析可能なものの支配する領域を去って、【世界を驚嘆させる】自然的なもの、根源的なもの、悪魔的なものの支配する領域へと踏み込むことになるということ、しかもその際さらに歩を進めてそれを吟味し説明する事などできないと言う事である。
非常に賢明な人であった”ウィルヘルム・フォン・フンボルト”は、ゲーテの死後数日を経て、こう語った。「注目に値する事は、この人間がいわばなんら意図せずに、無意識的に、ただ単にそこに存在しているというだけで、きわめて強力な影響を人々に与えたと言う事である。」と、”このことは”とフンボルトは書いた、「彼の思想家および詩人としての精神的な創作とはまだ関係しないそれ以前のことで、彼の偉大で個性に関わる事だ。」 ・・・・ 以下は、”source & remark - No2/2 ”に記載





≪ 人間 / ルドルフ シュタイナー 年表 ≫

1861年
シュタイナー
誕生
(fromnow資料)《シュタイナーの幼児期》 (写真) Rudolf-Steiner
1861年2月27日
当時のオーストリアの国境近くの町クラリエヴェク(当時のオーストリア帝国 から ユーゴスラヴィア > 現在はクロアチア、ボスニアなどの国に分裂)にて、オーストリア帝国南部鉄道の公務員(薄給の鉄道職員)であるヨーゼフ・シュタイナー(敬虔なカソリック教徒の両親)の元に第一子として誕生。
両親は前年5月16日に結婚していますから、現在で言うハネムーンベービーです。 そして、誕生の二日後には、カソリック教会で洗礼を受けています。 後には、妹と弟が誕生します。

前年の1860年 Arthur Schopenhauer 没
1861年 〜 1865年 アメリカ合衆国/南北戦争


1862年
彼が一歳半の時にミュードリングへ転居するものの僅か半年後の1863年の初めには再びボットシャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居し、二歳から八歳までその地で生活しています。又、妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地です(家族は合計五人)。
彼の人生の描写は、美しい自然と共に始まったようで、後年・彼は、自然豊かなアルプスの麓(ボットシャッハ)で幼年時代を過ごした事を、大きな喜びと感謝をもって 思い出しています。そして、シュタイナーの家族が ”森” との生活を切り離せなかったように、シュタイナー自身も、幼年時代〜成人してからも、「森」を歩く事が・趣味/生きがい・ストレス解消になったと述べています。


1865年4月15日  アメリカ大統領:リンカーン暗殺される

1872年〜
1878年
(fromnow資料)《シュタイナーの青春期》

(写真) 青春時代のシュタイナー

ウィーン新市街の実業学校に、11歳から入学。
この学校では、数学(幾何学)に興味をもつが、都会での生活には、苦難を感じ、自分が森や野原の生活と結びついているのを知れば知るほど、都会のように 目の回る忙しさに追われる外的世界では、自分は馴染めないと 思い始める。
この時代でも「都会」は「都会」!シュタイナーが、現在の東京やニューヨークなどを見たら「気絶」するでしょう!

(fromnow資料)《Felix Koguzki》

(写真) Felix Koguzki

この頃の彼の孤独な気持ちを救ってくれた出来事が有名です。
「汽車の中で、隣村の薬草売りフェリックス・コグツキーと出会ったことです。」
彼は、植物の背後にはたらく精霊たちについての豊かな(不思議な彼・独特の)知識があり、シュタイナーの良き理解者にもなっています。
コグツキー: 結構厳つい顔をしていますね!
汽車の中で、シュタイナーとこんなに恐い顔のコグツキーは、どのようなシュチエーションで出会いがあったのか、この場面を映画にするとしたら、「監督」は、どのような場面を考えるのか、・・・・・ 
私は、難しいシュタイナー叙述を、楽しみながら読み進めるようにしています。
1879年〜
1890年
ウィーンの工科大学の入学試験に合格後、入学までの間に、教科書を売り払い、哲学書を買いあさり 哲学に没頭しています。
又、この頃、幼年時代から体験(透視・霊的体験)していた事を、話し始めています。
今まで公言出来なかった事は、 この時代の社会状況からすれば 家族全てが、社会的な死に 繋がる事を理解していたからでしょう。そして 運命は、この学校で シュタイナーを、独文学者のカール・ユリウス・シュレーアー(ゲーテ研究者)と引き合わせる。


1882年 Charles Robert Darwin 没


1886年 / シュタイナー25歳
カール・ユリウス・シュレーアーとの出会いにより
シュタイナー最初の書籍「ゲーテ的世界観の認識論」を執筆し、ある意味では、後に自らの思考論理を、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)=Geisteswissenschaft (精神科学) > 心霊主義者的思考から「精神的諸現象の経験科学」へと導く”エポックポイント”に立つ訳です。


1889年 Adolf Hitler 誕生
1891年〜
1898年
(fromnow資料)《ワイマール時代のシュタイナー》

(写真) ワイマール時代のシュタイナー

この頃は、ニーチェやダーウィンの進化論を強力に支持したへッケルとも交流があったようですが、決して楽しい時代では なかったようです。 私が思うには、考え方の違いと言うよりも、人間的に合わなかったのかも知れません。
一つ楽しい事と言えば、小説家のガブリエル・ロイター女史に出会えた事のようですが、恋だったのか同志的な事だったのかは分かりません。
個人的には何時の時代でも、誰でも、男性は女性に救われているようで、同じなんだ〜、と感じ「ホッ」とします。・・・・・ 誰と同じなの?
又、この頃、子供達の家庭教師をするという事で、将来の伴侶アンナと知り合います。雑談(的)なので、だからなんだと言われても困りますが、私は、シュタイナーがアンナに、「母に対するような愛」を感じ、同居したようにも思えます。
家庭教師から同棲!今でも多い話で、同じなんだ〜、と感じ「ホッ」とします。・・・・・

さて、雑談はこの位にして、いよいよ、この時期位から、夢・死・人類や宇宙の霊的進化、行法などを説きはじめ、こうした精神科学を究めていく流れが始まります。
又、この時期は、シュタイナーが、インド系の神智学ではなく、唯物論的な立場からは知ることのできない霊的世界を直接探究する学問としての人智学的理念を重ねていた時期です。

1883〜1897年
ゲーテ自然科学論集の編纂という仕事や自由の可能性をダイナミックに追究し、ニーチェの影響をも受けて書いた哲学論文の 「 自由の哲学 ( Die Philosophie der Freiheit ) 」 に代表される哲学的思考の構築に、時間を費している時期。

この頃のシュタイナーは、上記「自由の哲学」や「ニーチェ論」を書いています。

1898年
Annaと結婚
〜1900年
(fromnow資料)《シュタイナーの最初の妻・アンナ》 (写真) Anna-Eunike (1853-1911)

1898年/8歳上のオイニケ未亡人・アンナ(45才)と結婚。 (アンナには、四人の娘と一人の息子がいた) その翌年 労働者養成学校の教師に赴任。(1899年〜1905年勤務)
シュタイナーは、37歳の初婚で 5人の子供の親に成った訳です。父親としてのシュタイナーはどうだったのでしょうか? 又、アンナの子供達は、どのように成長したのでしょうか?

私は、人智学と共にアンナ・シュタイナーとその家族にも興味が湧きましたが、 残念ながら アンナのデーターが余りに少ないので、このリポートには、記載する事が出来ませんでした!

《”作品と人格は別物”、といわれますが、私は、思想・宗教・教育的なことに関係する人々に対しては、一致して欲しいと思っていますので、人間・シュタイナーの人生・生活にも興味が涌きました。》


(fromnow資料)《40代のシュタイナー》 (写真) 40代 / シュタイナー思想の開花期

40歳の頃を境に、シュタイナーの神智学関連の活動が活発になり、神智学協会の指導者的立場に着いています。
又、「神智学」「アカシャ年代記」「神秘学概論」などを発表し、講演活動にも力を入れはじめ、種々の会で講演をするようになります。

この頃のシュタイナーの活動の勢いは凄かったようで、彼の驚くべき変化に今までの友人が離れ、アンナとの関係も、破綻していきます。アンナは、そのようなシュタイナーの「変わりよう」に驚き、違和感すら感じ始めます。  そして、シュタイナーの思想/教育/医学/農業のすべてが、40歳以降から始まった、この時期の講演及び活動で発表されていき、人智学 ・ アントロポゾフィーの礎が出来ていきます。
1900年〜
1911年
1900年
ベルリンの神智学文庫で神智学協会(die Theosophische Gesellschaft)会員を前にして行った講演を契機に、超感覚的に捉えた知見を次々に発表し始める。
この講演は、1回目が、1900年9月22日に、ニーチェ論
2回目は、1900年9月29日に、1899年に発表した論文「ゲーテの秘密の啓示(Goethes geheime Offenbarung)」を題材にして、人前で初めて秘儀的内容を語った、記念すべき講演。
この講演で、自らの思考方法は 精神世界(霊的世界)をただ崇めるだけの宗教や霊媒的なプロセスを介しての心霊主義者のヴィジョンとは異なり、精神世界のありのままを認識するという意味で、科学(Wissenschaft)なのだと述べている。 そして、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)という意味で Geisteswissenschaft (精神科学)と述べ、 精神的諸現象の経験科学として確立させていく。
又、シュタイナーの言う ”自らの思考基軸にある / Geist(精神,霊)”は、人間の肉体に宿った「精神」や時代や民族が共有する「精神」(鈴木大拙が述べている「霊性」に近いのではないと思われる。)を含む、根源的な「霊」を表しているようですが、東洋/仏教思想の「霊性」の染み付いた私には、”なるほど或いは解った”と言えないものがあります。
≪註≫
人間の根源的基軸思考で西洋・東洋/キリスト教・仏教等の境を超越したのが霊科学思考!
”凡人の浅はかな疑問、雑念!”
理屈ではありえるが、生身の人間がまっさらさらになって考えられ、解ったとなるものだろうか?



1900年 Friedrich Wilhelm Nietzsche 没


1902年10月
シュタイナーは、インドの神智学者アニー・ベサント(Annie Besant1847〜1933年)の協力を得てベルリンに結成された神智学協会ドイツ支部の事務局長になっている。その頃から神智学(Theosophie)や薔薇十字(Rosenkreuzer)の真なる道を探っている。

1904年
「神智学(Theosophie)」、
「いかにして高次世界の認識を獲得するか(Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten)」
などを著作

1904〜1905年
「アーカーシャ年代記(Aus der Akasha-Chronik)」などを著作


1905年-1917年 ロシア革命/ロマノフ朝が崩壊し、世界初の社会主義国家誕生


1907年
初の教育関係の論文「精神科学から見た子供の教育(Die Erziehung des Kindes vom Gesichtspunkte der Geisteswissenschaft)」を雑誌ルツィファー・グノーシス誌(Luzifer-Gnosis)に発表している。

1907年2月19日
最初の遺言書(手書き)を作り残している。 ≪下記に全文記載≫

1910年7月4日
遺言書を正式な形にして再度作り直している。 ≪下記に全文記載≫

1910年
精神科学の主著「神秘学概論(Die Geheimwissenschaft im Umriss)」を著作し、夢・死・人類や宇宙の霊的進化・行法などを説いている。
1911年
Anna 死

1913年
1911年3月19日、妻( !? )・アンナ ・ シュタイナー 没す。享年 58才
Anna は、Steiner と結婚して幸せだったのでしょうか?

『 Anna と Steiner の結婚生活とは? ”愛”/”平等”/”無裁き・無批判・無差別”とは?
結婚後・数年で、”Anna と Steiner” の思考・思想・生き方の違い・隔たりが現れたようです。
それは、Annaの生前且つマリーとの結婚前(1914年/結婚)の1907年2月19日に書かれた”Steiner” の遺言書でも分かります。

≪ 手書き遺言書 (下記に全文記載) 「 私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。 彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。 特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。 」 ≫
Anna や その娘と息子には、遺産・所有物は残したくなかったのか?
Anna が、その遺言書の存在をを知ったとしたら?
また、 四人の娘と息子は、どのような人生を送ったのでしょうか?
その子達は、シュタイナーのことを、どのように思っていたのでしょうか?
シュタイナーも”人間”であり、”男”です。
愛し合って結婚しても、色々な事があったと思います。
ほかに好きな人が出てきたりもし、他者では分からぬ事もあったと思います。
別角度では、障害者の子供を云々という話しもあるようですが、 しかし、・・・・・・・・・・・・
この場合の”愛”や”平等” / ”無裁き・無批判・無差別”とかは、どのように考えればよいのでしょうか?
前記していますように、”人格”と”作品”は別と考える方もおりますが、私は、思想・宗教・政治などに携わる方々の発言・叙述・生き方などは、同一或いはその努力(苦悩)のあとを見つめ・捉えたいと、常々考えていますので、 このような”学び”については、そこからスタートしたいと考えています。 そこで、私なりの思いが取り越し苦労である事を願いつつ、その思いも記載しておきます。 』

あちらの世界にお邪魔したら、イッパイ飲みながらでも、シュタイナーに、人間(!?)そして男(!?)としての心内を聞けたらと思っています。 ”そのための土産には、ドイツビールを考えています。”




1908年〜1912年
ヨハネ福音書(1908年)、ルカ福音書(1909年)、マタイ福音書(1910年)、マルコ福音書(1912年)などと神智学的・秘教的キリスト論を展開し、各地で講演するに至る。
シュタイナーは、キリスト・イエスに対して下記のように述べています。
「西暦元年、二人の少年イエスが生まれた。一人はダビデ家・ナタンの末裔であり、他の一人はダビデ家・ソロモンの末裔である。二人の子供は、全く同じではないが、ほぼ時を同じくして生まれた。  前者はルカ伝の、後者はマタイ伝の伝える子供イエスである。」

この叙述について、キリスト・イエスが二人いたのだと考える方もいますが、私は、福音史家(ルカとマタイ)の単なる見解の違いによるものではないかと思っています。

1913年1月
神智学協会本部は、おかしな方に向かい、J.クリシュナムルティをメシアの再来であるとする一派が力を増し、これをドイツ支部にも強要しようとして、シュタイナーの反対にあい、シュタイナーのいるドイツ支部が本部からの除名にあう。

1913年年2月3日
シュタイナーは、最初の人智学協会(die Anthroposophische Gesellschaft)の総会を開き、この日から独自の人智学の道を歩み出し、その会員数は、3000人を超えていた。
因みに、この時期の人智学協会は単なる事務局的な存在でしたが、1923年のクリスマス・イブに行われたクリスマス会議以降は、人智学運動理念の実態的組織である一般人智学協会(die Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft) へと移行していきます。 ≪下記の1923年12月24日の欄にも記載≫

1913年8月28目
運動音楽芸術オイリュトミー(Eurhythmie)の最初の上演が、ミュンヘンで行われる。
1913年
ゲーテアヌム
建設開始
1913年9月20日
スイス-バーゼル近郊にあるドルナハ(Dornach)に人智学活動の中心となるべき建物の建築が、シュタイナーの構想に基づいて始まる。

1914年
Marieと結婚
〜1919年
(fromnow資料)《50代のシュタイナー》 (写真) 50代半ばのシュタイナー

1914年12月24日 マリー・フォン・ジーフェルズと再婚
アンナの死後3年で再婚しています。シュタイナー53歳!

この年表を見て解かるとおり、アンナの死後から
マリー・フォン・ジーフェルズとの再婚にかけての間に、ゲーテアヌムの計画・建設に取り掛かっています。
このような事から考えても、シュタイナーの「思想活動」の中心的な位置にマリーがいた事が分かります。

(fromnow資料)《シュタイナーの二度目の妻・マリー》 私が読んだ資料では、マリー・フォン・ジーフェルズはアンナとは異なり かなり シュタイナー(人智学:オイリュトミー)の前面に出た女性のような気がしていますが、シュタイナーの活動を、心身ともにバックアップした女性である事に間違いありません。
(写真) Marie-Steiner(1867-1948)

1914年 第一次世界大戦勃発

1915年3月18日
ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下に、各々で遺言書が交わされた。 ≪下記に詳細記載≫

1918年
建設中のドルナッハの建物が、ゲーテアヌム(Goetheanum)と名づけられる。

1919年 Ernst Heinrich Philipp August Haeckel(ヘッケル) 没

1919年3月
ドイツ革命と第一次世界大戦の敗戦で、混乱が続くドイツの国民に向けて、「ドイツ国民とその文化界に告ぐ ( An das deutsche Volk und an die Kulturwelt ) 」 というアピールを、社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) として出している。
社会三分節化論は当時、マルキシズムに対抗する一つの思想として一部では注目されるが、その後長いこと顧みられずにいた。しかし、1970年代後半になってからようやく再び検討され出し、1980年代には環境保護をうたった西ドイツ緑の党の脱マルキシズムの理念の一翼を担う働きをしている。
日本では、東京裁判での奇行で有名な”右翼思想家で大東亜戦争の理論的指導者”大川周明が、社会三分節化論を三重国家論として翻訳している。

≪参考≫ 社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus )

人間の社会活動を、「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」の三種に分け、 そのそれぞれが、「精神生活では自由」を、「経済生活では友愛」を、「法的生活では平等」を、いしずえとして、各種に独自性を持たせながら、全体を一つと考える社会三分節化論(die Dreigliederung des sozialen Organismus)をうたい、1919年4月には【社会問題の核心】を刊行しています。
当時、この社会三分節化論は、マルキシズムに対抗する一つの思想と考えられいます。
又、シュタイナーのこの考え方は、物質世界と霊的世界が表裏一体であるという立場からの、マルキシズム唯物観批判、社会主義批判の論調とも受け止められています。


1919年8月21日〜9月6日
最初のシュタイナー学校(Waldorf・schule)の教師となる人達(12人)を前に連続講演をて行っている。

※  12人の教師となるべき人たちに行った連続講演では、シュタイナー教育の基本知識である、
1 ) 教育の基礎としての一般人間学 (Al1gemeine Menschenkunde a1s Grundlage der Paedagogik)
2 ) 教育芸術−方法論と教授法 (Erziehungskunst,Methodisch-Didaktisches)
3 ) 教育芸術−演習とカリキュラム(Erziehungskunst,Seminarbesprechungen und Lehrplanvortraege) の三つを中心とし、オイリュトミーや音楽教育についても、語られている。
※  シュタイナーは、原稿なしのこれらの講演を、午前中は人間理解のための「一般人間学」、午後は教育の実際面を説いた「教育芸術−方法論と教授法」、 夜は参加者の発表も交えた「教育芸術−演習とカリキュラム」として一日のうちに行い、日曜日だけ休んで、二週間ぶっ通しで続けるという、超人的なスケジュールで行ったようだ。

1919年
シュタイナー
学校開校
(fromnow資料)《シュタイナーの二度目の妻・マリー》

1919年9月7日 シュタイナー学校開校
1919年4月〜9月にヴァルドルフ・アストリア (Waldorf-Astoria) タバコ工場で講演を続け、同年9月7日にタバコ会社を経営するエミール・モルト(Emil Molt)の援助を受け、最初のシュタイナー学校が開校されることになります。
エミール・モルトは、シュタイナーの能力を認め、資金面等経済的にシュタイナーをバックアップしています。これが現在、多くのシュタイナー学校が、「Waldorf」の名称をつける
所以です。

(写真) Emil Molt ( 1876 - 1936 )

1919年10月
「社会的精神と社会主義的迷信(Sozialer Geist und soialistischer Aberglaube)」という小論で、精神を経済の関数とする唯物主義の迷信を批判する。

1920年
第一
ゲーテアヌム
完成

1922年
(fromnow資料)《50代のシュタイナー》 (写真) 第一ゲーテアヌム完成 【 1913 - 1920 】

Height : 34m / Width : 75m / Length : 85m
≪木造(基壇のみRC造)≫
正面から見ると「ゾウガメ」のようにも見えますが、その甲羅部分の屋根の葺き方も色も美しい。 大きな写真で表示できなくて残念ですが、本当に美しく感じます。窓周りは遣りすぎかなと思う位に飾っていますがいやらしくなく、遠景になるとシンプルに見えるのが不思議です。台座は別として、その他全てが木造で出来ています。
大小のドーム屋根のバランス、庇の曲線、窓の取り方、全体のフォルム、幾何学形態による平面計画の面白さ、誰が放火して消滅させたのか?全く残念です。

ところで、私には、第一ゲーテアヌムと第二ゲーテアヌムの平面を、敢て十字架形態にしたようにも見えます。
これは当時のキリスト教会建築の特徴的な形態です。 興味が、ここにも向きましたので、参考に分析資料を掲載します。  (註)私の勝手な分析で、シュタイナーが、意図的に計画したのかどうかは分かりません。

詳しくは、下記 ”R,Steiner/Architecture” ボタンをクリックしてみて下さい。

Goetheanum's Plan


1920年10月
ゲーテアヌムが、「精神科学のための自由大学(Freie Hochschule fuer Geisteswissenschaft)」とも呼ばれるようになる。


(写真) Ita Wegman

1921年

オランダ人医師イタ・ベークマンらの協力を得てアントロポゾフィー医学を構想する。 一般的には、誤解されやすいのですが、シュタイナーが考えるアントロポゾフィー医学は、自然科学的・アカデミックな医学を否定するものではなく、シュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の理論と自然科学的・アカデミックな医学の融合を試みています。



A.A.fromnow 資料

21 . August . 1921


1922年
第一
ゲーテアヌム
焼失
1922年12月31日  第一ゲーテアヌムが、放火により焼失

 



1923年8月
シュタイナーはイギリス北部のヨークシャーで「現代の精神生活と教育(Gegenwaertiges Geistesleben und Erziehung)」という講演を行ている。その第2講演で次のように述べている。
「こんにち一般に、文明の諸状況が急激に変化している様子が感じられます。
又、社会生活を営むさいの各種設備に、目新しいもの・もっと多くのものをと考えてしまう傾向も感じられます。」 何か現在の世界状況を述べているようにも感じる。
≪ 下記の叙述については、現代人も肝に銘じるべきではないでしょうか! ≫
シュタイナーは、文明の急激な変化に伴う状況が、人の心の暖かみを奪い、気持のふくらみを押しつぶしていく機械的な働きや考え方の背後にある一つの力を見るようになります。
そして、この力を彼はアーリマン(Ahriman)という名をつけました。 人の心から潤いをなくし、血の通わない冷淡な考え方や生命が感じられない生活環境を作り出すこの力を一方の極とすると、もう一方の極には、人を陶酔させ、血を沸き立たせる力をおくことができると考え、もう一つの力をルツィファー/ルティフェル(Luzi-fer)と名づけています。
この力は、人は夢中になるあまり我を忘れて、ふだんなら見えていることが目に入らなくなることがあり、このような陶酔や熱中の背後に働く力です。
シュタイナーの ”社会の謎を内側から見る (Die innere Aspekt des sozia1en Raetsels) ”の叙述によると、「 アーリマンは、人間を味気なく散文的かつ通俗的な者にし、血肉を失わしめ,唯物主義の迷信に導く力のことである。 これに対しルツィファーは、人間の内にあらゆる熱狂的な興奮や誤った神秘主義的傾向を呼び起こし、人間を舞い上らせようとしたり、人間の血を生理学的に沸き立たせ、無我夢中にさせようとしたりするものすべてに働いている力のことである。」と述べられています。

1923年12月24日
この日に行われたクリスマス会議にて、人智学協会が単なる事務局から、人智学運動の理念を体現した組織としての一般人智学協会 ( die Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft ) に変っていく。


1924年1月1日
上記クリスマス会議の最後の日に、食事に毒が盛られる事件。

1924年6月
人智学思想に基づく「農業」講座が行われた。

1925年
第二
ゲーテアヌム
建設開始

steiner 死
(A.A.fromnow資料)《晩年のシュタイナー》 (写真) 晩年のシュタイナー


クリスマス会議の最後の日/1924年1月1日の夜に、毒を盛られたという説が有力で、俗に言う「毒殺未遂」と言う事になります。事件から、1年4ヶ月後の死なので毒殺とは言えませんが、この事が死を早めたのは事実のようです。誰が毒を盛ったかは、不明です。  晩年、第一ゲーテアヌムの放火事件や毒を盛られた事など不幸な出来事が続くが、めげずに精力的に活動している事には驚く。

(A.A.fromnow資料) ・・・・ 放火とか毒殺などと聞くと「恨み」や「怨恨」を連想してしまいます。
真実は分かりませんが、ヒットラーの部下による放火や毒殺未遂・ドイツの駅構内での暗殺未遂説が有ります。
その説によると、駅構内の暗殺未遂の時には、シュタイナーはその事を予知していましたが、周囲の人の停止を振り切り”その場”に行ったそうです。当然、その時には難を逃れましたが、・・・・


・・・・ どうでもいいことですが!
私は、この手の”予知”云々の伝聞は、某宗教団体教祖の周辺伝聞に似ていて取り上げたくはありませんでしたが、参考として記載しておきます。
(A.A.fromnow資料) 又、シュタイナー思想は、理解の仕方によっては人種差別・偏見(特定人種優位説等)と取る向きもありますので、その様な事も関係しているのでしょうか?

人間・シュタイナー! 愛別離苦・喜怒哀楽・そして、生活などなど、今と成ってはどうでも良い事なのでしょうが、シュタイナー思想と共に私の興味は、その方向にも向いてしまいます。

※ 1925年3月30日、シュタイナー没す。享年 64才


シュタイナーの死後、一般人智学協会は、1935年から1945年までナチスによって禁止された中断期間はありましたが、1990年4月の時点でその会員数は、ドイツを中心に4万7千人にのぼっている。
1928年
第二
ゲーテアヌム
完成
(A.A.fromnow資料)《50代のシュタイナー》 (写真) 第二ゲーテアヌム完成 【 1925 - 1928 】
シュタイナーの死後3年を経て完成しています。
放火でも燃えないような頑強なデザインと構造になっています。
Height : 37m / Width : 85m / Length : 91m
≪RC造≫
一般的には同じ建築家が設計したものには、同一の脈絡があり、どんなに違うデザインにしてもそこには、その人の設計手法が流れ同一人物が設計したものだと読み取れるのだが、”平面形態”は別にしてアクセス周辺のデザイン手法以外には、第一と第二ゲーテアヌムにはそれがない。
シュタイナーは、焼失した第一ゲーテアヌムとは全く違うもの。放火されても燃えない建物 / 頑強な建物を念頭に、一から造形を考え直したとしか思えない。 ま〜、それにしても凄い造形力ですね。 
※ 詳しくは、下記 ”R,Steiner/Architecture” ボタンをクリックしてみて下さい。


1933年 ドイツでヒトラー政権誕生
1939年 第二次世界大戦勃発
1945年 Adolf Hitler 没

1948年
Marie 死
10月27日、妻・マリー・シュタイナー 没す。享年 81才
(fromnow資料)《シュタイナーの二度目の妻・マリー》 マリー・シュタイナーはルドルフ・シュタイナーの2回目伴侶で、女優でした。
ルドルフ・シュタイナーがオカルティズムに関わる仕事をする出発点にいて、オイリュトミー、言語形成など舞台芸術の発達の出発点にも彼女がいた。又、シュタイナーの著作はマリーが設立した出版社から出され、シュタイナーの講義録が彼の死後に世に出るのは彼女によることが大きい。 ルドルフは、厄介な仕事はしばしばマリー・シュタイナーに任せ、時々 彼は冗談でマリー・シュタイナーのことを「掃除婦」と呼んだり、「彼女は私のよく役に立つほうきだ」と言ったこともある。
(fromnow資料)《シュタイナーの二度目の妻・マリー》 しかし、ルドルフ・シュタイナーは絶対的にマリー・シュタイナーを信頼していました。 公表されている初めての遺言は、まだマリー・フォン・ジーフェルスの名前の時で、「私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の名の下に決定する権限を持つことを定める」という言葉で始まり、「マリー・フォン・ジーフェルス自身常に私とともにあり、二人の結束は恒久不滅のものである」という言葉を残しています。
(写真) Marie-Steiner(1867-1948)

マリー・シュタイナー
オイリュトミーすると言う事は、動作によって歌う事です。それは歌であって、舞踏でも、芝居でもないのです。まさに歌う事なのです。


A.A.fromnow 資料(オイリュトミー)




マリー・フォン・ジーフェルスへのシュタイナーの遺言書
( 1911年3月19日、妻( !? )・アンナ ・ シュタイナー 没 )


※ 最初の遺言書を作成〈手書き〉

1907年2月19日/ベルリン
私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。 特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。彼女には、私の死を、謎と見なすのではなく、高次の諸力の意志に応じたものと捕えてほしい。このような事は、まだ理解することができないとしても、尊重しなければならない状況の中で生じる。
マリー・フォン・ジーフェルスは常に私と共にあるだろう。私達の結び付きはいつまでも断ち切られることはない。
Rudolf-Steiner / ルドルフ・シュタイナー 

※ 正式な形での遺言書を作成

1910年7月4日/ベルリン、モッツ通り17番
ここに署名者として、私の死後以下のことを私の遺言の一部と見なすことを宣言する。
【1】.私の死後、書類、資料、手紙は元よりすべての私所有の私信は、モッツ通り17番のマリー・フォン・ジーフェルス嬢が所有することになる。
彼女だけが、私の意志に沿って、私が現在所有している書類すべては元より、前述の文書を処理する決定をする。
【2】.マリー・フォン・ジーフェルス嬢が、私の死後、私の著作に関する遺産の総管理者となる。すなわち、彼女が、私の原稿や講義の出版は元より、著作の新版についての決定をする。
Rudolf-Steiner / ルドルフ・シュタイナー

※ 公証人の立ち会いの下での遺言書
1915年3月18日/ベルリン
ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下で各々に遺言書が交わされた。 それには、この前(1910年7月4日作成)のものに次の言葉が足されている。
「どちらか一方が死んだ場合、残された者が唯一の相続人となり、遺産すべての決定権を持つ。 」
Rudolf-Steiner : Marie-Steiner / ルドルフ・シュタイナー : マリー・シュタイナー






【資料】 死の2年前(1923年)にシュタイナーがベルリンの友に書いた詩


第一ゲーテアヌム/ガラスエッチング

ベルリンの友へ


人は見る、
この世で作られた目で。
それで人が目にするものは、こうして人を縛り付ける、
この世の快楽と、この世の絶望に。
それは、そこに生命として芽吹く
すべてのものに、しかし、とりわけ
あの暗き深淵へと
落ち行くすべてのものに、人を縛り付ける。

しかし、人は見る、
霊性に委ねられた目で。
人が見るものは、こうして人を結び付ける
霊的な希望と、霊性に支えられた力へと。
それは人を永遠の内に根差す
すべてのものに結び付ける。

そして永遠の内にその果実を実らせる。
しかし、人がその時見ることができるのは
人が内的な目そのものを神から与えられた
霊性の器官と感じるとき。
その器官は魂の焦点により
人間の体の神殿の内で
神々の行為を全うする。

人間は神の最奥のことを忘れている。
しかし、私達はそれを引き上げ、
私達の意識にまで上らせ、光で溢れさせ、
そして、塵と埃の中から引き上げ身につける─
人の心に神的な炎を。
どうか、稲妻よ、私達の感覚から作られた家を
粉々にしてくれ。
そこに、私達は知識の上に築かれた
魂の家を建てるだろう、
鉄のように堅く、光で織られた織物の上に。
そして、外部の崩壊と入れ違いに
魂の最奥が立ちのぼってくるだろう。

苦痛は物的な影響力の諸力から
私達の身にふりかかってくるものだが、
しかし、暗闇が私達を覆い隠す時でさえ
希望は輝き、
そして、それは、ある日
私達の記憶の中から現れ出て、
ついに、暗闇の後、
私達は再び光の中で暮らせるだろう。
私達はこの鮮明な輝きが
未来の明るさにおいて私達に否定されないことを望む。
なぜならば、今のところ私達は苦しみの内にあり、
それを私達の魂に植え付けていないから。

DEN BERLINER FREUNDEN

Es siehet der Mensch
Mit dem welt-erzeugten Auge,
Ihn bindet, was er siehet
An Weltenfreude und Weltenschmerz,
Es bindet ihn an alles
Was da wir, aber minder nicht
An alles, was da sturzet
In Abgrundes finstre Reiche.

Es schaut der Mensch
Mit dem geistverliehnen Auge,
Ihn bindet, was er schauet
An Geisteshoffen und Geistes-Halte-Kraft,
Es bindet ihn an alles
Was in Ewigkeiten wurzelt
Und in Ewigkeiten Fruchte tragt.

Aber schauen kann der Mensch
Nur wenn er des Innern Auge
Selber fuhlet als Geistes-Gottes-Glied,
Das auf der Seele Schauplatz
Im Menschen-Leibes-Tempel
Der Gotter Taten wirket.

Es ist die Menschheit im Vergessen
An das Gottes-Innere.
Wir aber wollen es nehmen
In des Bewusstseins helles Licht
Und dann tragen uber Schutt und Asche
Der Gotter Flamme im Menschenherzen.
So Mogen Blitze unsre Sinneshauser
In Schutt zerschmettern:
Wir errichten Seelenhauser
Auf der Erkenntnis
Eisenfestem Lichtesweben,
Und Untergang des Aussern
Soll werden Aufgang
Des Seelen-Innersten.

Das Leid dringet heran
Aus Stoffes-Kraft Gewalten,
Die Hoffnung leuchtet
Auch wenn Finsternis uns umwallt,
Und sie wird dereinst
In unsre Erinnerung dringen
Wenn wir nach der Finsternis
Im Lichte wieder leben durfen.
Wir wollen nicht, dass diese Leuchte
Dereinst in kunft'gen Helligkeiten uns fehle
Weil wir sie jetzt im Leide
Nicht in unsere Seelen eingepflanzet haben.






”筆者の独り言コーナー”


我々現代人の唯物論/物理主義にどっぷりと浸かった精神は、物理的には見えない世界や霊的・魂的世界などの分野にはアレルギーを生じ、硬直し、その思考に胡散臭さと疑惑を感じ、 【宗教】という括りでしか許さない状況に落ちいています。これは、魑魅魍魎が跋扈するこの社会状況からみて、仕方がないことにも思えます。
参考までに、
超常現象・神秘体験や予知の捉え方として、ウイリアム・ジェームズの法則というものが有ります。

これはオカルト研究で有名なアメリカのコリン・ウイルソン博士が名づけたもので、彼はこう述べています。
「超常現象・神秘体験や予知に関する客観的証明は、ある程度の証明は沢山あるが、誰もが疑問を持つ余地のない絶対的な証拠というものは出てこない。 これは、ウイリアム・ジェームズ(1842〜1910 - アメリカの心理学者・哲学者/超常現象の科学的研究に取り組んだ。)が言った言葉なのです。
どうも超常現象・神秘体験や予知の証明ということは、本質的にそういう限界をもっているのではないかと思える。 超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠がでるが、信じたくない人には否定するに十分な曖昧さが残る。そういう証拠しか出ないのが超常現象で、これをウイリアム・ジェームズの法則とよんでいます。」
巻末のINDEXの「Science - NEAR DEATH(クリック)」にも書きましたが、自然科学分野でも超常現象・神秘体験や予知の研究をしている医師・学者も多くいます。立証実験で有名なのは、カリフォルニア大学ディヴィス校のチャールズ・T・タール教授で、この分野の研究者のロバート・A・モンロー氏(モンロー応用科学研究所所長)も実験に強力しています。 その他男女数名の超常現象・神秘体験や予知体験者の実験を重ねた結果、かなり強いポジティブな事例があったことを認めたが、疑問の余地のないほどの絶対的証拠である証明にはならなかったという。

この現象課題について、現時点での自然科学の世界では結論は出ない、出せないということで、まさにウイリアム・ジェームズの法則の通りだったようです。



一つの考え方

「神秘体験や予知」或いは「神的・霊的魂的」等を、自然科学 / 現代医学で簡単に説明しますと、脳( 大脳辺縁系 / 側頭葉シルヴィウス溝)”にはプログラムとして組み込まれていて、 何らかの状況の変化(刺激 / 事故・病・臨死等或いは偶発的現象)で表に出てきて体感や思考に至るという考え方で、人間内部 > 脳自体の問題 = 脳内現象説 としています。
興味のある方は、下記の”Science/NEAR DEATH"ボタンをクリックして『 自然科学 / 医学 - ”死”と”死後”そして”臨死体験』の項も、参考にお読み下さい。



India/Sadhu1 India/Sadhu2 India/Sadhu3



≪ 命題 ≫

”人間”とは何なのか? / ”我(私)” とは何なのか?




世の中は空しきものと知る時し
いよいよますます悲しかりけり

バレンシア/筆者水彩スケッチ
大伴旅人

Spain/Valencia




インド:祈る人 「gandhi」の言葉です ・・・・・・ My Life is My Messege
自分を異端と公言する強さを持ち、非暴力 ( アヒンサー )・無差別・不服従を貫き、 ヒンドゥー特有の身分制度(カースト制度=ヴァルナ・ジャーティ)に苦言を呈し、全ての人類の自由と平等を唱え、且つ宗教に対しても苦言を述べている。
「私はヒンズー教徒として本能的に全ての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。全ての宗教は同じ神から発している。
しかしどの宗教も不完全である。 なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ。 さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通じるさまざまな道である。 同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか。 又、どのような思想や行動をとっても必ず反対をする人々がいる。 忘れてはいけない彼らも正義なのである!」
まさしく人類愛!  そんな彼は、皮肉にも同じヒンドゥー教徒の暴力(銃弾)によって命を落とした。 / 自由・平等・人類愛に命を懸けたGandhi!

私は、彼の生き様を知れば知るほどに、”自由・平等・愛”などの言葉を、安易に口にはできなくなった。



インド / デリーの”ガンジー記念館”に展示してあるガンジーの住まい・ツギだらけの衣服・糸車・粗末な磨り減ったサンダル・メガネ・質素な食事のサンプル、ガンジーの生き様を示すように壁に書かれた”My Life is My Messege”の言葉!
そして、アインシュタインが、ガンジーの事を述べた言葉が添えてある。
【 Albert Einstein (1879〜1955) 】 
Generations to come will scarce believe that such a one as this walked the earth in flesh and blood! 「未来の人たちは信じられないだろう。 このような人が地球上に実在していたことを!」


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" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY " ......
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