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人間・ルドルフ シュタイナー年譜・年表 / まえがき |
1800年代中期〜1900年代前期 ヨーロッパの中世及びルドルフ・シュタイナーの生きていた19世紀〜20世紀初頭の頃は、欧米の多くの思想家・哲学者・心理学者などが、メガ宗教の古典主義や教条主義的な思考に物足りなさを感じ、 新たな思想・思考を模索し、既存宗教の先にある”もの”を探っていた時代背景があります。 |
その中での神秘主義思想の大きなウネリは、シュタイナーの時代より少し前に成りますが、ラルフ・ワルド・エマーソン ( Ralph Waldo Emerson / USA 1803〜1882)を中心に超越主義運動が、アメリカやヨーロッパで起こります。 超越主義 ( トランセンデンタリズム ) とは、19世紀はじめ、アメリカのニューイングランド地方で多かったユニテリアニズムの古典主義・合理主義的思考に飽き足らずに「永遠の魂・霊的世界」 を基軸に物事を考えようとする当時の新しい思想のことで、ロマン主義的でもありました。 |
Emerson |
この時代のドイツでは社会主義労働者党が結成されているが、直ぐに帝国主義が蔓延り、社会主義者鎮圧法が制定されています。 その後、シュタイナーの死後(1925年3月30日没)になりますが、1929年のニューヨークでの株の大暴落による世界恐慌から、かの悪名高い・アーリア民族主義者のヒトラーが、1933年に政権を取り、1939年にはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まっている。 フランスではナポレオン3世 【ナポレオン一世=ナポレオン・ボナ・パルト:(1769年 - 1821年)】 が皇帝になり、 米国では南北戦争〜リンカーンの奴隷解放・リンカーン暗殺、そして、ロシア革命が起こっています。 この時代の欧米の思想的背景は、ロマン主義、実存主義、シュタイナー誕生の直前の1859年にチャールズ ダーウィンの「種の起源」が発表され、自然科学の基礎的な確立期を迎えます。 ------ その後、民族主義的思想が台頭してきます。 尚、ドイツの建築家・ブルーノ・タウト氏は、ヒトラー/ナチスに共産主義者のレッテルをはられ、暗殺から逃れる為に”日本”に亡命しています。 その彼が、シュツッガルト工科大学で建築を学んだ久米権九郎氏の案内で埋れていた桂離宮の素晴らしさを発見し、世界に広めています。 参考までに、日本は幕末〜明治維新〜戊辰戦争(1868年 - 1869年)、日露戦争、1914年から1918年の第一次世界大戦〜テロの時代(血盟団による暗殺や5・15/2・26事件)を経て、満州事変・第二次世界大戦期へと時が流れている。 ・・・・・・ 日本も世界も”大激動期”でした。 世界中が文化から文明へ・精神から物質への大きなうねりの時代/思想的混乱期でした。 そして、迫り来る大小の戦争の足音を聞きながら”シュタイナー”は、生まれ・生きたわけです。 それに、Georg Wilhelm Friedrich Hegel(ヘーゲル)/1770年〜1831年やJohann Wolfgang von Goethe (ゲーテ)/1749年〜1832年などの大思想家の没後・すぐ後に生まれてきたのも、シュタイナーの人生/思想に影響を与えたのではないでしょうか。 シュタイナーの叙述・思想を学ぶ前には、彼が生きてきた時代背景を知ることも必要ではないかと考えましたので、主要点を記載しておきました。 |
≪参考1≫ ”場”と”時代背景” − 霊性
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≪参考2≫ トーマス・マンの”ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe )”に関する論文 |
≪ 人間 / ルドルフ シュタイナー 年表 ≫ |
1861年
シュタイナー 誕生 |
前年の1860年 Arthur Schopenhauer 没 1861年 〜 1865年 アメリカ合衆国/南北戦争 1862年 彼が一歳半の時にミュードリングへ転居するものの僅か半年後の1863年の初めには再びボットシャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居し、二歳から八歳までその地で生活しています。又、妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地です(家族は合計五人)。 彼の人生の描写は、美しい自然と共に始まったようで、後年・彼は、自然豊かなアルプスの麓(ボットシャッハ)で幼年時代を過ごした事を、大きな喜びと感謝をもって 思い出しています。そして、シュタイナーの家族が ”森” との生活を切り離せなかったように、シュタイナー自身も、幼年時代〜成人してからも、「森」を歩く事が・趣味/生きがい・ストレス解消になったと述べています。 1865年4月15日 アメリカ大統領:リンカーン暗殺される |
1872年〜 1878年 |
汽車の中で、シュタイナーとこんなに恐い顔のコグツキーは、どのようなシュチエーションで出会いがあったのか、この場面を映画にするとしたら、「監督」は、どのような場面を考えるのか、・・・・・ 私は、難しいシュタイナー叙述を、楽しみながら読み進めるようにしています。 |
1879年〜
1890年 |
ウィーンの工科大学の入学試験に合格後、入学までの間に、教科書を売り払い、哲学書を買いあさり 哲学に没頭しています。
又、この頃、幼年時代から体験(透視・霊的体験)していた事を、話し始めています。 今まで公言出来なかった事は、 この時代の社会状況からすれば 家族全てが、社会的な死に 繋がる事を理解していたからでしょう。そして 運命は、この学校で シュタイナーを、独文学者のカール・ユリウス・シュレーアー(ゲーテ研究者)と引き合わせる。 1882年 Charles Robert Darwin 没 1886年 / シュタイナー25歳 カール・ユリウス・シュレーアーとの出会いにより シュタイナー最初の書籍「ゲーテ的世界観の認識論」を執筆し、ある意味では、後に自らの思考論理を、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)=Geisteswissenschaft (精神科学) > 心霊主義者的思考から「精神的諸現象の経験科学」へと導く”エポックポイント”に立つ訳です。 1889年 Adolf Hitler 誕生 |
1891年〜
1898年 |
又、この頃、子供達の家庭教師をするという事で、将来の伴侶アンナと知り合います。雑談(的)なので、だからなんだと言われても困りますが、私は、シュタイナーがアンナに、「母に対するような愛」を感じ、同居したようにも思えます。 家庭教師から同棲!今でも多い話で、同じなんだ〜、と感じ「ホッ」とします。・・・・・ さて、雑談はこの位にして、いよいよ、この時期位から、夢・死・人類や宇宙の霊的進化、行法などを説きはじめ、こうした精神科学を究めていく流れが始まります。 又、この時期は、シュタイナーが、インド系の神智学ではなく、唯物論的な立場からは知ることのできない霊的世界を直接探究する学問としての人智学的理念を重ねていた時期です。 1883〜1897年 |
1898年 Annaと結婚 〜1900年 |
《”作品と人格は別物”、といわれますが、私は、思想・宗教・教育的なことに関係する人々に対しては、一致して欲しいと思っていますので、人間・シュタイナーの人生・生活にも興味が涌きました。》
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1900年〜 1911年 |
1900年
ベルリンの神智学文庫で神智学協会(die Theosophische Gesellschaft)会員を前にして行った講演を契機に、超感覚的に捉えた知見を次々に発表し始める。 この講演は、1回目が、1900年9月22日に、ニーチェ論 2回目は、1900年9月29日に、1899年に発表した論文「ゲーテの秘密の啓示(Goethes geheime Offenbarung)」を題材にして、人前で初めて秘儀的内容を語った、記念すべき講演。 この講演で、自らの思考方法は 精神世界(霊的世界)をただ崇めるだけの宗教や霊媒的なプロセスを介しての心霊主義者のヴィジョンとは異なり、精神世界のありのままを認識するという意味で、科学(Wissenschaft)なのだと述べている。 そして、Geist(精神,霊)の Wissenschaft(科学)という意味で Geisteswissenschaft (精神科学)と述べ、 精神的諸現象の経験科学として確立させていく。 又、シュタイナーの言う ”自らの思考基軸にある / Geist(精神,霊)”は、人間の肉体に宿った「精神」や時代や民族が共有する「精神」(鈴木大拙が述べている「霊性」に近いのではないと思われる。)を含む、根源的な「霊」を表しているようですが、東洋/仏教思想の「霊性」の染み付いた私には、”なるほど或いは解った”と言えないものがあります。 ≪註≫ 人間の根源的基軸思考で西洋・東洋/キリスト教・仏教等の境を超越したのが霊科学思考! ”凡人の浅はかな疑問、雑念!” 理屈ではありえるが、生身の人間がまっさらさらになって考えられ、解ったとなるものだろうか? 1900年 Friedrich Wilhelm Nietzsche 没 1902年10月 シュタイナーは、インドの神智学者アニー・ベサント(Annie Besant1847〜1933年)の協力を得てベルリンに結成された神智学協会ドイツ支部の事務局長になっている。その頃から神智学(Theosophie)や薔薇十字(Rosenkreuzer)の真なる道を探っている。 1904年 「神智学(Theosophie)」、 「いかにして高次世界の認識を獲得するか(Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten)」 などを著作 1904〜1905年 「アーカーシャ年代記(Aus der Akasha-Chronik)」などを著作 1905年-1917年 ロシア革命/ロマノフ朝が崩壊し、世界初の社会主義国家誕生 1907年 初の教育関係の論文「精神科学から見た子供の教育(Die Erziehung des Kindes vom Gesichtspunkte der Geisteswissenschaft)」を雑誌ルツィファー・グノーシス誌(Luzifer-Gnosis)に発表している。 1907年2月19日 最初の遺言書(手書き)を作り残している。 ≪下記に全文記載≫ 1910年7月4日 遺言書を正式な形にして再度作り直している。 ≪下記に全文記載≫ 1910年 精神科学の主著「神秘学概論(Die Geheimwissenschaft im Umriss)」を著作し、夢・死・人類や宇宙の霊的進化・行法などを説いている。 |
1911年
Anna 死 〜 1913年 |
1911年3月19日、妻( !? )・アンナ ・ シュタイナー 没す。享年 58才
Anna は、Steiner と結婚して幸せだったのでしょうか? 『 Anna と Steiner の結婚生活とは? ”愛”/”平等”/”無裁き・無批判・無差別”とは? 結婚後・数年で、”Anna と Steiner” の思考・思想・生き方の違い・隔たりが現れたようです。 それは、Annaの生前且つマリーとの結婚前(1914年/結婚)の1907年2月19日に書かれた”Steiner” の遺言書でも分かります。 ≪ 手書き遺言書 (下記に全文記載) 「 私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。 彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。 特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。 」 ≫ Anna や その娘と息子には、遺産・所有物は残したくなかったのか? Anna が、その遺言書の存在をを知ったとしたら? また、 四人の娘と息子は、どのような人生を送ったのでしょうか? その子達は、シュタイナーのことを、どのように思っていたのでしょうか? シュタイナーも”人間”であり、”男”です。 愛し合って結婚しても、色々な事があったと思います。 ほかに好きな人が出てきたりもし、他者では分からぬ事もあったと思います。 別角度では、障害者の子供を云々という話しもあるようですが、 しかし、・・・・・・・・・・・・ この場合の”愛”や”平等” / ”無裁き・無批判・無差別”とかは、どのように考えればよいのでしょうか? 前記していますように、”人格”と”作品”は別と考える方もおりますが、私は、思想・宗教・政治などに携わる方々の発言・叙述・生き方などは、同一或いはその努力(苦悩)のあとを見つめ・捉えたいと、常々考えていますので、 このような”学び”については、そこからスタートしたいと考えています。 そこで、私なりの思いが取り越し苦労である事を願いつつ、その思いも記載しておきます。 』 あちらの世界にお邪魔したら、イッパイ飲みながらでも、シュタイナーに、人間(!?)そして男(!?)としての心内を聞けたらと思っています。 ”そのための土産には、ドイツビールを考えています。” 1908年〜1912年 ヨハネ福音書(1908年)、ルカ福音書(1909年)、マタイ福音書(1910年)、マルコ福音書(1912年)などと神智学的・秘教的キリスト論を展開し、各地で講演するに至る。 シュタイナーは、キリスト・イエスに対して下記のように述べています。 「西暦元年、二人の少年イエスが生まれた。一人はダビデ家・ナタンの末裔であり、他の一人はダビデ家・ソロモンの末裔である。二人の子供は、全く同じではないが、ほぼ時を同じくして生まれた。 前者はルカ伝の、後者はマタイ伝の伝える子供イエスである。」 この叙述について、キリスト・イエスが二人いたのだと考える方もいますが、私は、福音史家(ルカとマタイ)の単なる見解の違いによるものではないかと思っています。 1913年1月 神智学協会本部は、おかしな方に向かい、J.クリシュナムルティをメシアの再来であるとする一派が力を増し、これをドイツ支部にも強要しようとして、シュタイナーの反対にあい、シュタイナーのいるドイツ支部が本部からの除名にあう。 1913年年2月3日 シュタイナーは、最初の人智学協会(die Anthroposophische Gesellschaft)の総会を開き、この日から独自の人智学の道を歩み出し、その会員数は、3000人を超えていた。 因みに、この時期の人智学協会は単なる事務局的な存在でしたが、1923年のクリスマス・イブに行われたクリスマス会議以降は、人智学運動理念の実態的組織である一般人智学協会(die Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft) へと移行していきます。 ≪下記の1923年12月24日の欄にも記載≫ 1913年8月28目 運動音楽芸術オイリュトミー(Eurhythmie)の最初の上演が、ミュンヘンで行われる。 |
1913年 ゲーテアヌム 建設開始 |
1913年9月20日 スイス-バーゼル近郊にあるドルナハ(Dornach)に人智学活動の中心となるべき建物の建築が、シュタイナーの構想に基づいて始まる。 |
1914年
Marieと結婚 〜1919年 |
1914年 第一次世界大戦勃発 1915年3月18日 ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下に、各々で遺言書が交わされた。 ≪下記に詳細記載≫ 1918年 建設中のドルナッハの建物が、ゲーテアヌム(Goetheanum)と名づけられる。 1919年 Ernst Heinrich Philipp August Haeckel(ヘッケル) 没 1919年3月 ドイツ革命と第一次世界大戦の敗戦で、混乱が続くドイツの国民に向けて、「ドイツ国民とその文化界に告ぐ ( An das deutsche Volk und an die Kulturwelt ) 」 というアピールを、社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) として出している。 社会三分節化論は当時、マルキシズムに対抗する一つの思想として一部では注目されるが、その後長いこと顧みられずにいた。しかし、1970年代後半になってからようやく再び検討され出し、1980年代には環境保護をうたった西ドイツ緑の党の脱マルキシズムの理念の一翼を担う働きをしている。 日本では、東京裁判での奇行で有名な”右翼思想家で大東亜戦争の理論的指導者”大川周明が、社会三分節化論を三重国家論として翻訳している。 ≪参考≫ 社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) 人間の社会活動を、「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」の三種に分け、 そのそれぞれが、「精神生活では自由」を、「経済生活では友愛」を、「法的生活では平等」を、いしずえとして、各種に独自性を持たせながら、全体を一つと考える社会三分節化論(die Dreigliederung des sozialen Organismus)をうたい、1919年4月には【社会問題の核心】を刊行しています。 当時、この社会三分節化論は、マルキシズムに対抗する一つの思想と考えられいます。 又、シュタイナーのこの考え方は、物質世界と霊的世界が表裏一体であるという立場からの、マルキシズム唯物観批判、社会主義批判の論調とも受け止められています。 1919年8月21日〜9月6日 最初のシュタイナー学校(Waldorf・schule)の教師となる人達(12人)を前に連続講演をて行っている。 ※ 12人の教師となるべき人たちに行った連続講演では、シュタイナー教育の基本知識である、 1 ) 教育の基礎としての一般人間学 (Al1gemeine Menschenkunde a1s Grundlage der Paedagogik) 2 ) 教育芸術−方法論と教授法 (Erziehungskunst,Methodisch-Didaktisches) 3 ) 教育芸術−演習とカリキュラム(Erziehungskunst,Seminarbesprechungen und Lehrplanvortraege) の三つを中心とし、オイリュトミーや音楽教育についても、語られている。 ※ シュタイナーは、原稿なしのこれらの講演を、午前中は人間理解のための「一般人間学」、午後は教育の実際面を説いた「教育芸術−方法論と教授法」、 夜は参加者の発表も交えた「教育芸術−演習とカリキュラム」として一日のうちに行い、日曜日だけ休んで、二週間ぶっ通しで続けるという、超人的なスケジュールで行ったようだ。 |
1919年 シュタイナー 学校開校 |
1919年10月 「社会的精神と社会主義的迷信(Sozialer Geist und soialistischer Aberglaube)」という小論で、精神を経済の関数とする唯物主義の迷信を批判する。 |
1920年
第一 ゲーテアヌム 完成 〜 1922年 |
1920年10月 ゲーテアヌムが、「精神科学のための自由大学(Freie Hochschule fuer Geisteswissenschaft)」とも呼ばれるようになる。
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1922年 第一 ゲーテアヌム 焼失 |
1922年12月31日 第一ゲーテアヌムが、放火により焼失
1923年8月 |
1925年 第二 ゲーテアヌム 建設開始 steiner 死 |
シュタイナーの死後、一般人智学協会は、1935年から1945年までナチスによって禁止された中断期間はありましたが、1990年4月の時点でその会員数は、ドイツを中心に4万7千人にのぼっている。 |
1928年 第二 ゲーテアヌム 完成 |
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1948年 Marie 死 |
10月27日、妻・マリー・シュタイナー 没す。享年 81才
マリー・シュタイナー オイリュトミーすると言う事は、動作によって歌う事です。それは歌であって、舞踏でも、芝居でもないのです。まさに歌う事なのです。 |
マリー・フォン・ジーフェルスへのシュタイナーの遺言書 ( 1911年3月19日、妻( !? )・アンナ ・ シュタイナー 没 ) ※ 最初の遺言書を作成〈手書き〉 1907年2月19日/ベルリン 私の死後、マリー・フォン・ジーフェルス嬢が私の唯一の相続人となり、私の名の下に決定する権利を持つ。彼女が決定することはすべて、事実上、私の名においてなされることになる。私の所有物はすべて彼女のものとなり、すべてのことは彼女の命によってなされる。 特に、彼女には、ホルンにいる私の両親と弟と妹をよろしく頼みたい。彼女には、私の死を、謎と見なすのではなく、高次の諸力の意志に応じたものと捕えてほしい。このような事は、まだ理解することができないとしても、尊重しなければならない状況の中で生じる。 マリー・フォン・ジーフェルスは常に私と共にあるだろう。私達の結び付きはいつまでも断ち切られることはない。 Rudolf-Steiner / ルドルフ・シュタイナー ※ 正式な形での遺言書を作成 1910年7月4日/ベルリン、モッツ通り17番 ここに署名者として、私の死後以下のことを私の遺言の一部と見なすことを宣言する。 【1】.私の死後、書類、資料、手紙は元よりすべての私所有の私信は、モッツ通り17番のマリー・フォン・ジーフェルス嬢が所有することになる。 彼女だけが、私の意志に沿って、私が現在所有している書類すべては元より、前述の文書を処理する決定をする。 【2】.マリー・フォン・ジーフェルス嬢が、私の死後、私の著作に関する遺産の総管理者となる。すなわち、彼女が、私の原稿や講義の出版は元より、著作の新版についての決定をする。 Rudolf-Steiner / ルドルフ・シュタイナー ※ 公証人の立ち会いの下での遺言書 1915年3月18日/ベルリン ルドルフ・シュタイナーとマリー・フォン・ジーフェルスとの婚姻後、公証人の立ち会いの下で各々に遺言書が交わされた。 それには、この前(1910年7月4日作成)のものに次の言葉が足されている。 「どちらか一方が死んだ場合、残された者が唯一の相続人となり、遺産すべての決定権を持つ。 」 Rudolf-Steiner : Marie-Steiner / ルドルフ・シュタイナー : マリー・シュタイナー |
【資料】 死の2年前(1923年)にシュタイナーがベルリンの友に書いた詩 |
ベルリンの友へ |
DEN BERLINER FREUNDEN
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