A. A . fromnow Human Report 第五項 シュタイナーの言葉と人々の名言

(fromnow作成)シュタイナー名言集
source & remark - No1/2

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シュタイナー叙述(言葉)から学ぶ


" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY "
☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆


A.A.fromnow 資料 ルドルフ シュタイナー
≪ 心に残った幾つかの叙述 - 言葉 ≫
A.A.fromnow 資料


シュタイナー(顔イラスト)
Rudolf Steiner
ANTHROPOSOPHIE

A.A.fromnow 資料
シュタイナー(顔イラスト)



☆ ☆ ☆


下記の叙述は、紙面上シュタイナーの各種書籍からほんの一部だけを抜粋しています。
シュタイナー叙述は、全てに繋がりがあり、一部で切り取ることが難しい文章になっておりますので、この部分だけで全体を判断すると、意味合いが異なる場合もあると思います。
その上で、敢えて切り取りって簡略化して記載していますので、中途半端な記載になっているのは否めません。
シュタイナー思想に興味のある方は、是非「A.A.fromnow 資料 - シュタイナー関係書籍案内」をご覧になり、興味のある書籍を読むことを、お薦め致します。
又、記載順には、何の脈絡も無く順不同になっています。

尚、誤解があるといけませんので記載しておきますが、シュタイナーは、教訓的なことは叙述していないような気がします。 彼にとっての事実を叙述しているのです。


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私は、道徳的な言葉や名言と言われる言葉を発し・残す方は、よっぽどの嘘つきか、よっぽどの悟りに至り神仏に近づいた方か、 その言葉と自己との生活や行為のギャップに耐えられずに気がおかしくなるか、自死への道を歩む方ではないかと思っています。
前者は詐欺師か似非宗教家(オーム真理教の麻原氏等)で、次はゴータマ・仏陀などで、後者にはニーチエなどがいます。
私は、前者と後者を行ったり来たりしている中途半端な人間です。 だから、分かるような気がします!
『 名言などは心地よい言葉ですが、言葉/叙述とその方や自分自身の行為/行動や生活が伴っているかも読み取らないと、真の学びにはならないのではと思っています。』



A.A.fromnow 資料 Rudolf Steiner
ANTHROPOSOPHIE

精神科学!
精神科学は、霊的器官によって高められた知覚から、その諸事実を汲みとる認識を通してその関連を追及する。また、精神科学は、人間の生成過程をさかのぼって追及する。そこで、人間の本来の内的で霊的な存在が、この地球上での一連の”生”を通じて歩んできた事実が明らかになる。
書籍・叙述にシュタイナーが込めた思い!
神智学と神秘学は、難しい表現による文体に同意して読んでいく読者の善意を前提とする書物として広く普及した。 私は全く意識的に、誰にでも分る叙述ではなく、正しい思考の努力によってしか内容の中に入っていけないような叙述に努めた。 私はこれによって、読むこと自体が霊的修練の始まりになるという性格を、これらの本に”刻印”したのである。 こうした読書に必要とされる冷静で慎重な思考の努力は、魂の諸力を強化し、それらによって魂が霊的世界に近づく事を可能にするからである。

人間の構成要素
人間の最も固有な本質は、神的なものから取り出されてきているために、人間は自分の内部に神的なものを見出す事が出来るのである。人間は神的なものを通して人間の第三の魂の構成を獲得する。 これは、アストラル体を通して外界についての知覚を受け取るように、神的なものをとおして自分自身についての内的な知覚を獲得するのである。 神秘学ではこの第三の魂の構成部分を「意識魂」と呼ぶこともできる。 神秘学的には、体的なものが三つの構成部分・「物質体」「エーテル体」「アストラル体」から成り立っているように、魂的なものは、三つの構成部分・「感覚魂」「悟性魂」「意識魂」からなりたつ。・・・・・・
・・・・・・・人間の七つの構成要素は「物質体」「エーテル体または生命体」「アストラル体」「自我」「霊我」「生命霊」「霊人」であり、これは 光の七色や音階の七音についてと同様であり、「光は(赤」)と(紫)の向こう側に眼が知覚出来ないだけだが色がまだアル」という反論には、物質体の向こう側にも霊人の向こう側にも人間の本質は継続していて、この継続が≪霊的に不可視≫であるにすぎない。


≪参考≫

アストラル体とは? 
シュタイナーは、人間の内部では、親密にアストラル体は”知覚に持続性を与えている魂の部分”と結びつき、それを総合してアストラル体と呼び、厳密に言うならば人間のアストラル体を魂体と呼べると述べ、魂が魂体と一つになっている限り、魂を感覚魂ということもできる。と述べているが、分かり辛いので一般的な解釈で説明致します。
ジャーナリストの「立花隆」氏が「超常現象・臨死体験」等の調査研究過程で書いた書物にあった言葉です。『 アストラル体というのは、オカルトの世界では昔からある概念で、時代によって人によって、その使い方が違うので、簡単には定義できないが、一口で言うと、人間の構成要素として魂と肉体の間にある中間体的なものである。 非物質的な生命の担い手で、通常は肉体の内部に宿って、肉体と同じような形をしているが、形は固定しておらず、フレキシブルである。そして時とすると、肉体の外部に出てくる。 特別の能力を持った人は、これを自分の意志の力で外部に出すことが出来るという。また病気や疲労などで肉体が消耗しているときには、自然にそれが外に流れ出してしまうこともある。 しかし、外に出ても、生きている限りは、アストラル体は、元の肉体に戻ることが出来る。 アストラル体には、感覚能力・知覚能力・記憶能力なども備わっているので、肉体を離れた状態での体験を思い出すことが出来る。また、アストラル体が離れても、肉体の通常の能力は必ずしも失われないので、肉体は肉体でそのまま日常的な活動を継続することも可能であると言われる。』
一つの解釈・説明として参考にして下さい。

エーテル体とは?
シュタイナーが言う「エーテル体」は、物理学的なエーテル/「光の担い手」ではなく、物質体の至るところに浸透している人間の本質の第二の構成部分を意味します。言うなれば、物質体の一種の「建築家」のように見なす事が出来るとも述べています。
シュタイナーの目には、物質と生命の間に、数字で規定できる違いだけでなく、決定的な相違が映っていたようです。又、シュタイナーは、生命にはその担い手として肉眼には捉えられないエ一テル体(der Aetherleib)が宿っていると考えます。 そのエーテル体が抜け出れば、その生命体は死にます。
そして、シュタイナーは、このエ一テル体を提供する源の世界として、物質界より高次なエ一テル界(die aetherische Welt)を考えていました。 これが生命力の世界です。
人間の場合、エ一テル体は物質体(der physische Leib)に生命を与えているだけでなく形も与え、記憶力やリズム性・習慣性なども担っているとされます。 エ一テル体は超感覚的な観察によると、輪郭は物質体とほぼ同じであるが、内部はリズムをもって流れる流動体と考えています。
芸術的感動や宗教的畏敬の念は、このエ一テル体に良い影響を及ぼすといいます。 シュタイナーは、体とその源であるエ一テル界を構成している素材は、我々が何かを想像する時に浮ぶイメージに、生命を吹き込んだようなものとも考えました。それが前述の ”物質体の一種の「建築家」のように見なす事が出来る” という事に繋がります。

それでは、「自我」とは何ぞや? ・・・・ 
自然科学、哲学、精神科学、シュタイナーの叙述等々其々の分野で一冊の本になる位に深く興味のあることですので、楽しみながら自分なりの「自我論」を探り出して下さい。

参考までに、フロイトの「精神構造論」では、自我は三層構造になっているとし、下部の自我〜超自我と呼ばれる上部の自我に分類し、快楽原則を原理とし自己を本能的行動に走らせる自我から理性や理想・倫理観のもとに導こうとする超自我と段階的に分け、一体としています。
尚、ルドルフ・シュタイナーが述べている「自我」については、「神秘学概論」の第二章「人間の本質」・第三章「眠りと死」等で述べていますので、そちらを参照下さい。 
”自我” ・・・・ 人間の永遠の探求テーマかもしれません。一つの自我論を参考に下記に記載いたします。



≪参考≫”怒り”から導く方法で、「自我」を 「 デカルト的 」 に考察してみました。

医学的には、理性は脳の表面を被っている大脳新皮質の働きによるが、本能や欲望、怒りや恐怖等の情動は、大脳新皮質の下にある大脳辺縁系の働きであり、人間は、理性と情動を連動させることが出来る珍しい動物であるらしい。 この脳の前部・前頭葉(前頭連合野)が巨大化し「自我」という機能を有するようになり自己同一性が保持された。 その結果「死」の恐怖も生まれ、それらの恐怖から免れる方法として『 体が滅んでも、精神(魂)は不滅である 』という考え方が生まれ、宗教などの根本思想となった。
そして、人間が発明した極めて優秀な「心の安定装置」でもあると考えるようにもなる。 この「心の安定装置」/ 宗教での「怒り」の捉え方は、正常な判断力を弱め、自我の弱体にも繋がるので、人間の低次な感情表現と考え、キリスト教では、七つの大罪の一つとしています。
仏教でも、怒りを克服しない人間は「地獄界の精神状態へ導く」と考え、死後最も悪い状態に魂が行く事になるとしています。 生物学的には、「不安」・「いらいら」・「怒り」は、生理的な現象も含めて「 本能的欲求やテリトリーへの侵入に対して、思うがままにならないこと / ストレスや威嚇 」の表現で、 人間の場合には、心と身体の「安定とバランス」が崩れた時の「悲鳴」のようにも感じてしまいます。

≪補足≫
”怒りや死の恐怖”を取り除けたら、どんなに素晴らしいことかと思っていましたが! 1940〜50年代に、脳の前部に有るとされる怒りや恐怖、精神分裂・躁鬱病等の原因を脳全体から分離させ、消去する研究が行われている。 この研究(ロボトミー研究)で、ポルトガル人医師/エガス・モニスは、ノーベル賞まで取っているが、ロボトミー施術で不安や凶暴性、怒りや恐怖(死の恐怖)、喜びや悲しみ等の情動は希薄になるが、人間としての自我(精神)の喪失が問題しされ、 今でもこの分野の研究は、大きなうねりにはなってはいない。
以前に本で読みましたが、アメリカだかカナダの建設作業員が、事故で頭の前部(前頭連合野)に鉄筋を突き刺し、一命は取りとめたが、理性の利かない全く別の人格(”私が私”で無くなってしまう。)になってしまったという話があります。 このことで解かることは、”怒りや恐怖”等の情動は「自我(私は私!)」と連動しているということになり、取り除くと”私”ではなくなってしまうということにもなりますので、「心の安定装置」などの力を借りて共存するしかないみたいです。

又、角度は異なりますが、精神医学者の河合隼雄氏が自我の確立について、下記のように述べています。
自我の確立を西洋流に考える事は、「男性の目」によるものである。「女性の目」を通して見るという場合、自我の在り方からして異なってくるはずである。 そして、この事は必然的に東洋と西洋の対比の問題にまで及んでくるのである。 ノイマンの提出した、西洋近代の自我は----男女を問わず----男性の英雄像で表される。 という説に対して、筆者は、日本人の自我は----男女を問わず----女性像で表されるのではないかという仮説を既に提出した。


人間の進化
ダーウィニズムの偉大さを否認することはありません。しかしダーウィニズムは、人間の内的な進化を解明していません。 それはもっぱら、関連性のうちの、顕在的なものしか見ていません。そのため、それは、人間の霊的本質をないがしろにするようなあらゆる純物質的な解明法と全く同じような性質をもつのです。
こうして専ら物理的な事実に基づいた進化論は,人間の起源を動物に求めるのです。 それは彼らが、化石人類において、発達の遅れた低い額を確認したからです。 これに対し、物質的な人間をエーテル的人間の単なる表われと見なす秘教は、ことを全く異なる観点から見ます。
事実,人間のエーテル体は、物質的な体とほとんど同じ形をしており、その輪郭から安々とはみ出ることができます。

《参考》 宇宙(人間)の進化 / 自然科学とは異なる角度で説いています。
シュタイナーは宇宙の進化を、土星期からヴァルカーン期までの惑星状態に分け、その各惑星状態は、七つの生命状態を通過し、各生命状態は七つの形態状態を通過して進化すると考えました。
現在は、第四惑星状態「地球期」の第四生命状態/第四形態状態「アトランティス期」/ゲルマン・アングルサクソン文化期になります。詳しくは「神秘学概論/宇宙進化論」をお読み下さい。

《 参考 - 七つの惑星期 》
1土星期 熱体期/物質体基礎期
2太陽期 エーテル体基礎期
3月期 アストラル体基礎期
4地球期 物質体・エーテル体・アストラル体・自我期
5木星期 自己意識/形象意識期
6金星期 インスピラツィオーン期
7ヴァルカーン期 イントゥイツィオーン期


人間について ・・・・・ 
※物質として外から直視できる人間全体は、【ルツィフェル】の影響の結果なのです。
※物質とは霊(破壊された)の瓦礫の山のことです。
※霊が肉体を凌駕しているエーテル体の中に飛び散る時に神経物質が生じ、三つの素材を見出す。
  第一に外界に存在する通常の素材。
  第二が植物の中に見られる素材。
  第三に不規則になった人体、動物体の中に見られる素材である。
※人間(人体)の将来について
〜聴覚が死滅し、喉頭部が未来の生殖器官となる。
  ≪註≫この項は、多岐にわたりますので、前後を切り取り要点だけを明記しています。
死後・人の眠り
人間が眠りの間に体験する状態を観察する事なしには、目覚めている意識の本質を洞察する事は出来ない。 死を考察する事なしには、生のなぞには迫る事は出来ない。
≪死後≫
死後すぐ後に来る諸体験は、ひとつの点で生きている間の諸体験とは、全く異なるものである。浄化の間・人間はいわば逆戻りして生きる事になる。人間は誕生して以来、生きているときに体験した全ての事柄をもう一度体験する。 死の直ぐ前の出来事から始まり、誕生までの全てがもう一度逆に体験される。 そして、その際、生前に自我の霊的本性に由来しないすべての出来事が、霊的に眼前に現れる。ただ、人間は、この全ての出来事も逆の仕方で体験する。 例えばある人が、60歳で死に40歳の時に激しい怒りから誰かに肉体的あるいは精神的に苦痛を与えたとすると、その人は死後、生前の生涯を逆に戻って、40歳のところへ達した時、この出来事をもう一度体験するであろう。 ただ、その時は、生前、他者を攻撃する事で生じた充足を体験するのではなく、その代わりに、自分が他者に与えた苦痛を体験するのである。
この浄化の時は、生きてきた間の約1/3を要する。

≪眠り≫
人間が眠りに落ちると、人間の構成部分の関係に変化が生じる。眠っている人間の中で、その場所に横になって居るのは、物質体とエーテル体であって、アストラル体と自我は含まれない。眠っている時にエーテル体は物質体と結合した状態であるので、生命の働きは継続する。 なぜなら、物質体はそれだけで放っておかれるならば、その瞬間に崩壊する事になるなるからである。 しかし眠っている間に消えているものは、さまざまな表象であり、苦悩と快楽や喜びと悲しみであり、意識的な意志を言い表す能力であり、生活に見られる似たような諸事実である。 だが、それらについては、アストラル体が担い手である。 眠りの間に、アストラル体があらゆる快楽と苦悩、全ての表象世界や意志の世界と共に消滅していると言う考えは、とらわれのない判断にとっては、言うまでもなく、全く問題にならない。アストラル体は、まさに別の状態で存在しているのである。 人間の自我とアストラル体は、快楽や苦悩そして先に述べたあらゆる他のものに満たされているだけではなく、それらについての意識的な知覚も持っているが、そのことが意識されるたみめには、アストラル体が、物質体、エーテル体と結びつく事が不可欠である。 目覚めている間はアストラル体は、物質体とエーテル体と結びついているが、眠りの間はそうではない。アストラル体が物質体、エーテル体と結びついているときとは異なる存在のあり方をしているのである。 ここで、アストラル体のこの異なる存在のあり方を考察する事が、超感覚的なものへの認識の課題となる。
輪廻
人間が物質界の人生で獲得した果実が、霊の国で成就すると、その度に 繰り返し人間は地球上に戻ってくる。 しかし、初めと終わりのない繰り返しは存在しない。人間は、かって、別の存在形式から、既に述べたあり方で経過する存在形式に移ったのであり、未来においては別の存在形式に移行するであろう。

どの人間も、自分の霊的な基本形態に従って、生まれる前に存在している。 なぜなら、霊的に考察すれば、どんな個人も他の個人とは同じではないからである。 それは、ちょうど動物の種が、他の動物の種と同じではないのと同様である。・・・・・・・ 略
略 ・・・・・・・ 霊的探求が述べている、地上生活と地上生活との間の霊的領域の諸事実と関連している繰り返される地上生活(輪廻転生)のみが、このことが、現在の人間の生をあらゆる方面から考察した時に、満足のいく説明をする事が出来るのである。


≪死・再生・カルマ・誕生(輪廻)の考え方≫
人間は、いつまでも自我・アストラル体・エーテル体・物質体の四重の存在でいるわけではない。
いずれ物質体の崩壊による死が訪れる。すると人間は,自我・アストラル体・エーテル体の三重の構成となって、物質界から抜け出る。 この死後の世界で「自我」が意識を維持しながら数日を過した後、エーテル体の分離が起こる。 そして、自我とアストラル体という二重の構成になった人間は、アストラル界に出て、そこで地上の人生のおよそ1/3に相当する期間を過ごす。 その後、アストラル体の分離が起こり、人間は感情にわずらわされない純粋な霊(Geist)となって、「高次の霊的世界」で過ごすことになる。これはふつう数百年かかる。 その数百年のある時期に、「次の生」をどのような体で、「どのような環境」のもとで過ごすのが「霊的進化のために」最も良いかが決まる時がある。 所謂、 「カルマの現れ(Die Offenbarungen des Karma)」です。
そして時が満ち、再び物質界へ向けての下降が始まる。途中アストラル界でアストラル体を、エーテル界でエーテル体を、新たに身につけ、その後母胎に宿って物質体を得た後に、前生を忘れた新しい人生が始まる。
・・・・・・・・ 新たな「誕生」です。
≪参考≫

ウパニシャッド/ヴェーダ
ヴェーダでは、死後の事を「今の身体を去った後に、直ちにその人の知識と業と前世に関する記憶を伴って、微細な原理である心が執着しているところに赴き、その業の報いを得て、また再びかの世からこの世に行為をなす為に帰ってくる。」と述べています。
この繰り返しの後、欲望を捨て去った者は「心の臓に宿っている欲望が全て捨て去られると、死すべきものは(人間)は不死となり、この世でブラウマンに到達する。」
第一位(普遍位=目覚めの「覚醒状態」)
第二位(光明位=夢見の「夢眠状態」)
第三位(智慧位=欲望も夢も感知しない「熟睡状態」)
第四位(言語表現を超越したアートマン/梵我一如)
又、ウパニシャッドの一体観念は、魂と宇宙の普遍的な原理として、物理主義/合理主義を排したアメリカの超越主義思想の指導的思想家「ラルフ・ワルド・エマーソン【Ralph Waldo Emerson】-(1803年〜1882年)」 などにも影響を与えています。

インドのウパニシャッドに興味のある方は、前田專学氏の「インド哲学へのいざない(ヴェーダとウパニシャッド)」や中村元氏の「ウパニシャッドの思想」等に詳しく書かれています。

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≪註≫ Rudolf Steiner

インド人の叡智の書(ヴェーダ)に含まれている内容は、極めて古い時代に、偉大な教師達によって育まれた高次の叡智の本来の姿を伝えているのではなく、そのかすかな余韻を伝えているに過ぎない。


A.A.fromnow 資料 (シュタイナーと仲間達 NO2)
ルドルフ・シュタイナー

人生1
人生は、人間の自我が事実に基づいた態度をとるための偉大な教師である。
人生2
人生は、「自我」の内部に物質的な器官そのものの本質に由来するものではないが、物質的な器官によって充足する事のない享楽を求める欲求を燃え上がらせた。

人生3
青年時代は”肉体”の季節、中年は”心と知性”の季節、老年は”魂”の季節。

感情1
内面にかなり苦しい感情を呼び起こすようなことが、ある人の身に起きたとする。
その人はそれに対して二通りの態度を取る事が出来る。その出来事を苦しい思いをするものとして体験し、苦しい感覚に没頭し、それどころか、ことによると苦しみの中に沈んでしまう可能性もある。
しかし、別の態度を取る事も出来る。実際、私自身が前の人生で私の内部に私をこの出来事に遭わせる力を形成したのだ。私が自ら、私にこのような苦しみを与えたのだ。と言うことが出来る態度である。
そして、このような人は、更にそうした考えをもたらすあらゆる感情を、自分の内部に呼び起こす事が出来る。当然の事であるが、感覚や感情の活動がその様な状態になるためには、そうした考えをこの上なく真剣に、ありとあらゆる力で体験する必要がある。
感情2
欠陥を避難する事によって学ぶのではなく、欠陥を理解する事によってのみ学ぶ事が出来る。
しかし、理解する為に不満をすっかり排除しようとするならば、やはり進歩はないであろう。
・・・・ ここで重要なのは一面性ではなく、魂の諸力の安定とバランスなのである。
病(やまい)
精神科学は、病気の大部分が、アストラル体における倒錯や錯誤がエーテル体に伝わり、エーテル体を通して、物質体の調和そのものを破壊することに因るものであるという事実を明らかにしている。
Doppelganger / ドッペルゲンガー : 境界の守護者
□人間が霊的知覚器官を獲得するところまで規則正しい修練を行うならば、自分自身の姿が最初の印象として自分の前に現れる。 ”自分のドッペルゲンガーを知覚するのである。” -----略----- ドッペルゲンガーは「魂的-霊的世界の前に存在する”境界の守護者”」と呼ぶ事ができる。
□人間が「境界の守護者」との出会いなしに霊的−魂的世界に入っていくならば、次々と錯覚に陥るだろう。なぜなら、自分がその世界に持ち込んだものと、その世界に本当に属しているものとを区別することが出来なくなるからである。
□超感覚的世界に入っていく時以外に、人間が、この「境界の守護者」に出会うのは、物質的な死を通過するときである。
≪かなり省略して記載していますので興味のある方は「高次の諸世界の認識」をお読み下さい。≫

精神科学或いは霊科学では、生命を物質の延長として捉えず、その存在を、物質界とは別に見ています。
シュタイナーは、「いかにして高次世界の認識を獲得するか」で以下のようにも述べています。「正しい霊的修練を積めば、誰もが物質界とは存在のレベルを異にした生命の世界を、知ることができる。」
その、正しい霊的修練を行うと、自らの「境界の守護者」との出会いがあり、その守護者から「霊的−魂的世界」への正しい導入案内がされるようです。

≪参考≫
ドッペルゲンガー現象 (独: Doppelganger・英: double)/ 自己像幻視現象(オートスコピー)
自分と同じ姿を鏡ではなく、他者として見える現象で、精神病的幻覚にこのような事がある事も知られている。現代医学では、脳の一部(精神)の異常状態で起こる現象とみている。 又、”臨死体験”現象で、体外離脱して上から自分を見ている姿が、類似するものの一つでもあるようで、この現象には非常に興味があります。

”境界の守護者”とは、もう一人の自分 !?
シュタイナーは、そうは叙述していませんが、私には、神秘学的にこの状態(現世)で見る自己像は、肉体(物質体)から遊離した「アストラル体」ではないかと思えてならない?
この現象は、昔から伝説や民話によく出てくる、対面から顔を隠した人がやってきて、すれ違いざまに顔を確認すると、なんと自分の顔だった、という類の話です。日本では芥川龍之介の小説があり、欧米でもこれをテーマにした文学作品はかなり多い。 その他にシューベルトの「白鳥の歌」の中の「ドッペルゲンガー」(ハイネ詩)はこの現象を歌い、ゲーテは「詩と真実」で、失恋時の傷心状態でのドッペルゲンガー体験を述べている。


Luzi-fer & Ahriman
ルツィファー / ルツィフェル(Luzi-fer)
人間の内にあらゆる熱狂的な興奮や誤った神秘主義的傾向を呼び起こし、人間を舞い上らせようとしたり、人間の血を生理学的に沸き立たせ、無我夢中にさせようとしたりするものすべてに働いている力の事である。
アーリマン(Ahriman)
人間を味気なく散文的かつ通俗的な者にし、血肉を失わしめ、唯物主義の迷信に導く力の事である。
忘却
「自我」にとっての記憶と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りによく似ている。眠りが昼間の心配や憂いを無のなかに消し去るように、忘却は、人生の嫌な経験の上にヴェールをかけ、それによって、過去の一部を消してしまう。 そして、消耗した生命力が新たに強められる為には、眠りが必要であるように、人間は、新しい体験に自由にとらわれなく向かい合うつもりならば、記憶から自分の過去のある部分を消し去らなければならない。 しかし、まさに忘却から、新しいものを知覚する力が呼び覚まされるのである。
判断
"私"の内部には、現在"私"が持っている判断能力よりも正しく"私"を導いてくれる何かが存在している。 "私"はこの「"私"の内部の何か」に対して、"私"の感覚を開いておかなければならない。 そこまでは"私"の判断能力はまだ成就していないのだ、と。
魂が人生のそのような場合に注意をを向けていれば、その何かは、魂にとっても有効に働きかける。 そのとき、時々の人間の判断力で見通せる以上のものが、人間の内部には存在しているのだという事が、健全な予感のように、魂にあきらかとなる。このような注意深さは、魂の活動が拡張するように働く。 しかしこの場合にも容易ならぬ一面性が生じる可能性がある。"予感"が自分をあれこれの事柄に駆り立てるので、常に自分の判断を排除する習慣をつけようとする者は、あらゆる不確かな衝動に翻弄されるであろう。 そして、そのように習慣となった判断しない状態と迷信との間には、大きな違いは無いのである。
努力
自分の努力の全ては、常に 語らねばならぬこと、又、なすべきだと信じる事を、個人的観点 からではなく、具体化する事にある。
様々な領域で 人格的なものが人間の活動に最も重要な色合いを 与えると言うのが、自分の考えであるが、この人格的なものとは、自分自身の人格性を考慮する事によってではなく、人が語り、行為する仕方によって現れるに違いないと信じている。 よって、自分自身が努力でしなければならない事柄が明らかになる。
善意
心からの善意とは、ある魂が他の魂の関心事をいわば吸収し、自分の関心事にしてしまう事によって生じるのだ、と魂は考える事が出来る。そして、魂は、心からの善意というこのような道徳的な理念に喜びを感じることができるようになる。 それは、感覚世界の個々の出来事に対する喜びではなく、理念そのものに対する喜びなのである。その様な喜びを、暫らくの間、魂の中で生き生きとした状態にさせようと試みるならば、それが感情への沈潜である。

善と悪
かつて人間の内に動物性が混在していたように、現在、善と悪、あるいは、真と偽りという、相対立する二つのものが混在しています。この対立矛盾、すなわち、二つの要素がみずからの内で混在する仕方によって人間のカルマ、運命が形造られています。 いつの日か人間は、悪を客体として捨て去ることでしょう。こうした事柄を我々はすべて黙示録的な記述のうちに見出すのです。

マニ教の善と悪
マニ教の教義の核心は、善と悪の命題です。ふつうの見方では、善と悪とはお互い結びつきをもたず、絶対的な対立を成して、相矛盾するものです。
しかし、マニ教徒の考えでは、悪は宇宙の構成に欠かせぬ要素です。悪は宇宙の進化に参与します。 そして結局は善によって吸収され変化させられます。この世における善と悪、楽と苦の意義を究めることが、マニ教徒の大きな、唯一の使命なのです。
危機と理念の上昇
人間が現代ほど大変な危機に瀕していた時はいまだかつてなかったのです。万人の主であるものは、万人のしもべたるべきです。このことは、大いなる必然として生じねばなりません。
真のモラルは偉大な宇宙法則の認識から生まれるのです。偉大な理念は、我々の理想を徐々に前進せしめる活力の源泉なのです。我々は人生のうちの静かな瞬間に、偉大な進化の理念と相まみえるところまで上昇すべきです。
表象の背後へ
眼に見える世界の背後には、眼に見えない世界、すなわち 感覚とこの感覚に縛られた思考にとっては隠されている世界が存在するということと、人間の内部にまどろんでいる能力を発展させる事によりこの隠されている世界に立ち入る事が人間には可能であるということ。
芸術
真の芸術による影響は、人間に作用する。人間が芸術作品の外的な形、色彩、音を通して、その作品の霊的基盤に表象と感情を浸透させると、それによって自我が受けとる衝動は、実際にエーテル体にまで作用する。 この考え方を最後まで進めていくならば、芸術が、人類のあらゆる進化にとって、どんなに大きな意味を持っているかが正しく判断できるであろう。
理想
人生の中で理想が演じる役割は、機械の中で演じる蒸気の役割なのです。
動植物
植物に意識があり、動物に記憶があると考える誤り。
民話や伝記
諸民族の民話や伝記の宝庫は、元来、霊的体験から生まれたのである。 なぜなら多くの人々のおぼろげな透視能力は、現代からそれほど離れていない過去の時代まで続いていたからである。 確かに、透視能力を失ってはいるが、感覚的-物質的世界に対して身に着けたさまざまな能力を、透視能力に対応する感情や感覚に従って、十分に発達させた人々もいた。
オイリュトミー
人間は、現在あるそのままの姿として完成した形をしている。しかし、この完成した形は、運動によって生み出されているのである。 そして、私達は、その中で 「オイリュトミー」を作り出す根源運動の中へ遡っていく。・・・ まさに、見える歌なのである。
マリー・シュタイナー
オイリュトミーすると言う事は、動作によって歌う事です。それは歌であって、舞踏でも、芝居でもないのです。まさに歌う事なのです。


india_sadhu1 【 瞑想 】と【 修練 】


個人的に ” 興味及び特異体験がある項目 ”
ですので、少し細かく記載する事に致します。
india_sadhu2


人生(日常)において【権威や怒り】から離れた考えに至るために、シュタイナーは【瞑想】や【修練】の大切さを説いています。




《 私事になりますが、瞑想/修練による特異体験を少しだけ記載します 》

2012年の春、習慣的になっていた「薔薇十字」の瞑想・修練を、早朝/夜と気楽な気持ちで行っていました。
ある朝何か違和感を感じ、その後2週間くらいして、自分自身の”原点”的なモノ(もう一人の自分!?)が出現し、次にそのモノが瞑想している自身を、操作(目覚めさせ)し始め、その後は実生活でも現れるようになりました。


いわゆる、ドッペルゲンガー現象 (独: Doppelganger・英: double /上記参照 )のような事が起こったのです。
この現象の一つの考え方(心理学)としては、前述のフロイトの「精神構造論」にある超自我があたかも独自の存在として見える現象らしいのです。/ 心理学的には、一種の幻聴・幻覚現象になります。
その超自我の分離独立が不完全な状態では”もう一人の自分”がいると、自己の一部が外部に存在するかのように投影され体感します。 その分化がさらに進むと、分離した超自我は、自己と切り離された神的な存在として感じるようになるらしいのです。


本題に戻りますと、私の体験は、その後にある意味では辛いことや危ないことへと進みました。 ・・・・・・ !?
”起きたことや現象”は、こと細かく記録に残し、検証も試みていますが、それが ”瞑想や修練の結果”なのか、”私の思い過ごし”或いは”一種の幻聴・幻覚現象”なのかは、今でも結論は出していません。
・・・・・・・ あったようでもあり、なかったようでもある。 これが事実です。


《補足》

私は、インド/リシュケッシュ(ヨガの聖地)などで座禅瞑想を試みてきましたが、このような体験は初めてのことです。 全くと言っていいくらいに ”鈍感” な私には初体験で、今では、錯覚!或いは”体験したい”との心の作用による思い過ごしではないかとも思っています。
あまり前向きな体験ではなかったので、シュタイナーの言うように、私自身の魂の道徳的な状態が、それにふさわしい段階に達していなかったのか、或いは”霊的修練”の遣り方に間違いが有ったのか、”霊的修練”途上に現れる現象なのかを、彼岸に行った時にでも”シュタイナーさん”に聞いてみたいと思っていますが、現時点では分かりません! 又、それ以来・習性になっていたは「薔薇十字」の瞑想・修練は、止めています。


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【 瞑想 】とはなにか?
自然科学/医学的に分析すると、大脳新皮質の活動を呼吸法により停止させ、その際に何かが見え、そして変化が起きてくる状態をさすらしい。 ・・・・・・・・ 覚醒を高めると起こる現象に意義を持たせた状況 !?

”エリアーデ”の書籍「シャーマニズム」によると、中央アジア/チベットあたりの瞑想法は、シャーマンが種々の方法で”トランス(過呼吸)”状態に導いたり、修練による呼吸法によるものですが、南米のインディオやアメリカ先住民・アマゾンの住民は、幻覚性植物(所謂:ドラッグ)を使う瞑想により霊的体験をし、病の根源や神仏・先祖そして自我との対話を試みるようです。 このように色々な瞑想法がありますが、気持ちよくなる時間(開放感)や超能的な力を持つ為だけの技術(錯覚瞑想)でなく、真理に近づく為のとても重要な過程/修練としての【 瞑想 】もあります。
正しい瞑想により潜んでいた”自我”や”潜在能力・未知の力”等と対峙・対話することも出来るようですので、真摯に向かい合うことも必要だと思いますが、雑念から抜け出せない私には【 瞑想 】の意義について解らないことだらけです。  『 私は海外(国内では違法・海外でも !?)にいる時に、ドラッグ「マリファナ・ハッシシュなど」での瞑想も試みています。 それは、急上昇するロケットでの宇宙旅行を体感し、未知との出会いがあり・開放感と自由になったような錯覚を起こしますが、後には虚しさと吐き気が残るだけでした。 個人的見解になりますが、このような方法での【 瞑想/覚醒 】には疑問を感じています。』
尚、20年近く前の”某宗教団体”が試みていた【 瞑想 】と【 修練 】は前述のものではないかと思います。

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【 瞑想 】と【 修練 】 : 参考 / ヨガの"行”によるクンダリーニ覚醒

クンダリーニとは、ヨガの用語で、生命の根源的なエネルギーを意味します。
又、宇宙に存在するとされる根源的宇宙エネルギーのことをブラゥナーといい、このブラゥナーが人間の肉体の中で存在している状態(エネルギー)をクンダリーニといいます。
クンダリーニは、通常・人間の肉体に閉じ込められているとうことです。人間が生まれるということは、このクンダリーニが分割分有されるということにもなります。
クンダリーニは、脊椎の真下の会陰(一つのチャクラ)のあたりにあり通常は静かに眠っていますが、そのクンダリーニは、ヨガの行によって覚醒します。 覚醒したクンダリーニは、脊椎にそって体内を上昇していき、その過程で七つのチャクラにおいて、外の宇宙エネルギーと交信することになるようです。 それによってクンダリーニは、ますます活性化されていき、更に上昇してついには、頭頂部の最後のチャクラから外に抜け出ます。
そこで肉体から開放された生命エネルギーは宇宙エネルギーと一体になり”神”とも一体化するといわれます。 この場合の”神”とは宇宙の根源的なエネルギーそのものを指します。
インドの思想背景には、この世の全ての存在は仮象であり、真の実体は唯一つで、それが先ほど述べた”神(ブラゥナー)”なのです。
このクンダリーニを覚醒させ、チャクラを開く為には、ヨガの”行”が必要になるようです。

そのヨガの”行”について簡単に記述しておきます。
座禅を組み、足のかかとをクンダリーニが眠る脊椎の真下の会陰(一つのチャクラ)のあたりにあてがうようにします。 そこからヨガの独自の呼吸法により息を整えます。 それから大きく息を吸って息とともに宇宙エネルギーを吸い込み、一旦息を止めて宇宙のエネルギーを体内に循環させてからゆっくりと吐き出します。
同時にあらゆる感覚の働きを押さえ、何ものにも心を乱されないようにして、精神を集中させ無意識にわき上がってくる不要な雑念に心を乱されないようにします。
このような瞑想を続けていくと、チャクラがどんどん開いていき、やがて 最高のチャクラが開き、意識の世界も無意識の世界も超越した精神の自由な世界に入ります。
それが、自我が宇宙エネルギーと融合した境地で、”三昧”といわれる世界です。
これがいわゆる解脱(moksa)の境地になります。クンダリーニが目覚め、チャクラが開いていくに従って、肉体にもさまざまな変化が現れます。
ヨガの”行・瞑想”によるクンダリーニ覚醒を簡単に説明するとこのようなことになりますが、このような”行”や”瞑想”は、専門的な知識を持った方に誘導してもらい行わないとなりません。
また、勘違いされている方もいると思いますので、記載しておきます。 ・・・・ ”ヨガは、インド古来のバラモン教>ヒンドゥー教の宗教行法/解脱に至る修行の一つで、単なる健康法とは違います。”

インド/リシュケッシュでは、最初にヨガの定義的なことから入り、呼吸法などをマスターしてから”ヨガの行”の実地的な修練に入ります。
上記は、あくまでも参考に記述しましたが、安易/簡単に考えないようにして下さい。
また、ヨガ・行に興味がある方には参考書籍に、”超”心理学者・本山博氏の書籍「チャクラ・異次元への接点」 / 宗教心理学研究所出版があります。
本山博氏は、ユネスコから世界の著名・超心理学者10人の一人に選ばれています。



Rudolf Steiner - [ Meditation ]
【 瞑想/霊的修練 】
Rudolf Steiner 講演録 / 1914年10月3日・講演第一講(Dornach)

覚醒意識における私達が「皮膚/体」の中に収まっていると信じるのはひどい錯覚で、本当は、自分の見ている事物の中に存在しているとシュタイナーは述べています。
「ある人に向き合う時、私の自我とアストラル体は、その相手の人の中に存在しています。 私が自分の身体をその人に向けなければ、その人を見ることは出来ません。 その人が見えるのは、体のおかげですが、私の自我とアストラル体は、その人の中に存在しています。 このことが分からないのは、大きな錯覚(マーヤー)なのです。以上、物質界での知覚と体験とについて、概念的に説明してみました。 霊界においてはどうでしょうか。 私は、霊界が、物質界の事物や経過に較べて、きわめて流動的であり、変化が激しい、と申しました。 私達は物質界の粗野な事物におけるように、霊界においてもその霊的事象の中に収まって存在していますが、その流動的で精妙な事象を、それが余りに精妙であるために、意識して体験する事が出来ません。 ですから初めは、私達の個性の担い手である通常の自我による瞑想を通してそれを行うのです。」

瞑想はどのようになされるのでしょうか。「まず、何らかのイメージを取り上げ、そして自分を完全にこのイメージに委ねるのです。 その場合、自我は自分自身を忘れます。つまり通常の昼の意識の自我を抑制します。 自己中心的な昼の意識全てを排除するのです。 私達は、物質界の為に自己中心的な態度をとることに慣れていますから、まず自我そのものを抑制するのです。 そうすれば、肉体、エーテル体で生きる代わりに、もっぱらアストラル体だけで生きることが、次第に出来るようになります。 どうぞこのことに注意して下さい。 私達が瞑想に意識を集中するとき、第一に、自己中心的に生きないことを目標にします。 物質界では、そういうわけにいきませんから、まず、アストラル体で自己中心的な態度を抑えようと努めます。
しかし、アストラル体の体験は、初めは肉体に反映されませんから、意識化されていません。 花束を見る人は、実際に花束の中に収まっていますが、体が花束を映し出すときには、その花束を外にあるものとして見ます。 自我の自己中心的な態度を抑えるときの皆さんのアストラル体は非常に精妙になっていますので、外界の精妙で流動的な事物が知覚できるはずなのですが、意識して知覚しようとするときには、まずその事物を意識に映し出さなければなりません。 ここに、皆さんによく注意して頂かなくてはならないことがあります。 皆さんの中の多くの方は忠実に、真剣に、瞑想に打ち込んでいらっしゃいますから、通常の自己中心的な態度を抑えて、アストラル体の体験が生じるところまで来ています。
しかし、アストラル体の体験を意識化するためには、まず反映が生じなければならないのです。 皆さんの中のかなり大勢の方は、瞑想によって、アストラル体で生じるところまで来ていますが、大切なのは、反映することなのです。 通常の体験内容が身体によって反映されているように、霊界を意識的に知覚しようとするなら、まずアストラル体の体験をエーテル体によって反映させることが必要です。 では、エーテル体によってアストラル体の体験が映し出されるとき、何が生じるのでしょうか? その時に生じるものは、物質界の知覚内容とは全く違います。 物質界では切り取られた花束でさえ、完結しており、同一の姿を留めています。 花束を見て楽しみ、それを家に持ち帰り、花瓶に入れたとしても、花束は花束のままです。 しかし、アストラル体験がエーテル体によって映し出される場合は、全く違っていて、全てが生きており、どんなものも、一瞬たりとも静止していません。 けれども大切なのは、そこに直接映し出されて現れてくるものではないのです。 その場合に大切なのは、それが何かということです。
私がエーテル体によって何かを映し出したときは、花束を見るときのように、それをみて楽しむのではないのです。 皆さん、どうぞ、私の言う事を理解しょうとしてみて下さい。 これについては、これまで何度も同じ比喩を用いてきました。 ここにこう書きました。いくつもの線が引かれています。Bとaとuですね。 けれども、この記号を私が読めなければ「線がこんなふうになっている。 独特の形になっている。」と言うだけです。 私はそこに記されているいるものを、花束のように家に持って帰って、花瓶に入れたりはしません。 そにある「Bau」(建物)を取り上げて、ポケットに入れて家に持って帰る、というようなことが問題なのではありません。 大切なのは外の建物です。そしてその建物の事を「Bau」という記号で表現しているのです。 大切なのは花瓶に挿入する事ではなく、その記号を「読む」ことなのです。」



【 Rudolf Steiner 】 < 高次の諸世界の認識>
『 霊的修練と言う実践は、魂の道徳的発展を問題にしない外的であるという思いが容易に生じるかもしれない。 これに対しては、述べた自己意識の克服に必要な道徳的な力は、魂の道徳的な状態がそれにふさわしい段階に達していないのならば、獲得されない、と言わなければならない。 霊的修練の進歩は、同時に道徳的な進歩が必然的に生じるのでなければ考えられない。』
又、シュタイナーは、『 霊的修練にどうしても必要なのは、忍耐と根気である。』とも述べています。




【 クリック/拡大写真 】
A.A.fromnow 資料 (薔薇十字) Rudolf Steiner


霊的修練の実践
ここで重要なのは、表象像を作り出すために使われる思考内容に無感情に取り組んではならないということである。 このような思考内容や感情に没頭した後で、その思考内容や感情を次のように表象像に変化させるのである。
黒い十字架を思い浮かべる。 この十字架を、根絶された低次の衝動や情熱の象徴とする。 そして、十字架が交差するところに、七つの輝く赤いバラが円形に並んでいるのを思い浮かべる。 これらのバラを、血の象徴、すなわち浄化され純化された情熱や衝動の表現とする。
このような表象像は、前の記憶表象について説明したような方法で、思い浮かべるべきものでなくてはならない。 こうした表象は、その像に内的に沈潜して没頭するならば、魂を目覚めさせる力を持つのである。 沈潜している間は、他のあらゆる表象を全て排除しようと試みなければならない。 すでに述べた表象像だけが、可能な限り生き生きと心の中に浮かぶのでなければならない。

≪ 興味のある方は、「薔薇十字」の写真をクリックすると拡大写真が出ます。≫

霊的修練の進行 - Rudolf Steiner
二つの魂的な体験が重要である。
その一つの体験は、人が次のように言う事が出来るものである。 物質的な外界が印象として私に与えることのできるすべてのものを無視するようになったとき、 私は、私の内面にあらゆる活動が消え去っている本性を見るのではなく、感覚的な通常の悟性による印象からのみ刺激を得ている間は、まったく知る事のできない世界の中で、自分自身を意識しているある世界を見るのである、と。 魂は、こうした時に、今述べたような魂の本質の核としての新しい存在を、自分自身の内部に生み出したのだ、と感じる。 そして、その存在は、それまでの魂の内部にあったものとはまったく異なる特性を持つ存在なのである。
もう一つの体験は、それまでの自分という存在が自分と並ぶ分身であるかのようになるという体験である。 それまで閉じ込められていたはずの自分が、ある点では、自分と向き合っていると思われるようになる。 いつもは自分自身の本質、自分の「自我」と見なしていたものの外に、時々自分を感じるのである。 一方の自我は、それまでに知られていたものである。他方の自我は新たに生まれた存在として、第一の自我の上位にある。 そして、第一の自我は、第二の自我に対して一定の独立性を獲得しているように感じられる。


霊的修練の到達 - Rudolf Steiner
第二の新たに生まれた自我は、霊的世界を知覚するようになる。 この第二の自我において、感覚的物質的世界のための感覚器官と同じような意味を、霊的世界のために持ち物が発達する。 この発達が必要な程度にまで進歩すると、人間は自分自身を新たに生まれた自我として感じるだけではなく、それ以降、物的感覚によって物質世界を知覚するのと同じように、自分の周囲に霊的事実や霊的存在を知覚するようになる。
これが、第三の重要な体験である。 霊的修練のこの段階を完全に成就する為には、人間は、魂の力が強化されるにつれて、通常の魂の活動ではまったく知られていないほどの自己愛、自己意識が現われるということを覚悟しなくてはならない。


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A.A.fromnow Human Report - Rudolf Steiner's Source & Remark

Source & Remark-No1

上記

Source & Remark-No2

偏らないで、色々な考え方・見方を学ぶ
≪ 各方面の先達の見識・思考 ≫





A.A.fromnow Human Report - Rudolf Steiner Anthroposophie
Source & Remark-No2 ( 先達の見識・思考 ) ≫≫≫ Source & Remark-No2


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