A. A . fromnow Human Report 先人の学びの言葉

(fromnow作成)シュタイナー名言集
source & remark - No2/2

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偏らないで、色々な考え方・見方を学ぶ


" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY "
☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆



(fromnow作成)ルドルフ・シュタイナ

■ シュタイナー研究の過程で読んだ書籍の中から  ■
≪ 心に残った人々の幾つかの叙述 ・名言 / 体験記 ≫


(fromnow資料)ウロボロス-宇宙創生と進化の輪廻
シュタイナー(顔イラスト)
哲学者/思想家/学者/医師/作家/宗教家/詩人の方達の言葉です。

(敬称略)

シュタイナー(顔イラスト)

☆ ☆ ☆

Johann Wolfgang von Goethe
1749年 〜 1832年
ゲーテのサイン

<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

ゲーテは余りにも有名で、シュタイナーや多くの思想家・哲学者・芸術家などに影響を与え、多くの名言を残していますが、ここでは一人の「人間(男)・ゲーテ」としての一面を、少しだけ覗いてみます。

恋多きゲーテは、14歳の時(年上女性グレートヒェンに恋する)から始まり、学生期には、通っていたレストランの娘/アンナ・カトリーナ・シェーンコプフや牧師の娘/フリーデリケ・ブリオンなどと恋し、 最後には、77歳の時に60歳も年下のウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女へのプロポーズ、そして失恋へと繋がる。
又、23歳の時には、15歳の少女シャルロッテ・ブッフと熱烈な恋に落ち、失恋の失意から自殺まで考えている。
そのたびに、『ファウスト』、『アネッテ』、『野ばら』や『五月の歌』、『若きヴェルテルの悩み』等の大作を残しているが、全く、しょうがない程純粋で、自分の欲求に素直に行動ができて、羨ましい限りですが、理性的な行動には思えません。 このようなことからしても、彼の哲学・名言は、彼自身の自己批判・反省 及び 失恋などによる厭世感として読むと、私には納得(理解)できるんです。
しかし、”作品と人格は別物”といわれますが、ゲーテでなかったら、ただのスケベ親父でしかないと思いますが、偉人は、なんでも凄いという括りになるんでしょうね?
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・・・・・ 何歳になっても恋をするということは、素晴らしいことです。  日本でも荒畑寒村氏等など多くの方が高齢になっても若い女性にゲーテ的な恋をしています。  私には出来ないので「負け惜しみ」的な感想になりましたが、まあ〜、羨ましいし、凄い事には変わりがありません!
あくまでも、私が捉えた”人間(男)”ゲーテの一面です。


しかし、これだけではシュタイナーが自分の館に”ゲーテアヌム”と名前をつけたほどに敬愛したゲーテに失礼にあたりますので、もう少し書かせて頂きます。
ご存知のようにゲーテは、詩人・作家・政治家・自然科学者で植物学・色彩学・骨学等の研究にも邁進した人です。 又、彼の作品は自己告白的な要素を加味しながらも、その描いた先には小宇宙的な人生絵巻があります。
それはゲーテが、自らの生を詩的に見つめ、そして人類の調和や自然への畏敬の思想を基に、よりよく生きることに努力しながら生き抜いた姿です。  私は、一人の人間としてここまで戸惑いを持つ生き方をした人を知りません。
・・・・・ 分からない・つかめないと言う事です!
そこで、トーマス・マンの『ゲーテに関する幻想』と題する論文に書かれた、ゲーテ論の一部を引用します。
難しく、分かりにくい文章ですが、そのまま記載いたします。

『個性!・・・・ ゲーテはそれを”人間の最高の幸福”と呼んだが、個性とはそもそもなんであり、如何なる事情のもとにあり、その秘密の本質とはどんなものであるのか ・・・?   確かなのは、”個性”というこの言葉、この現象を前にする時、我々が単なる精神的なもの、理性的なもの、分析可能なものの支配する領域を去って、 【世界を驚嘆させる】自然的なもの、根源的なもの、悪魔的なものの支配する領域へと踏み込むことになるということ、しかもその際さらに歩を進めてそれを吟味し説明する事などできないと言う事である。
非常に賢明な人であった”ウィルヘルム・フォン・フンボルト”は、ゲーテの死後数日を経て、こう語った。 「注目に値する事は、この人間がいわばなんら意図せずに、無意識的に、ただ単にそこに存在しているというだけで、きわめて強力な影響を人々に与えたと言う事である。」と、 「このことは」とフンボルトは書いた、「彼の思想家および詩人としての精神的な創作とはまだ関係しないそれ以前のことで、彼の偉大で個性に関わる事だ。」 ------- この言からも明らかなように、この”個性”という言葉は、言葉で表現することができないあるもの、精神的なものの中にではなく生命力的なものの中にその源泉を求めなくてはならない 閃光をはなつあるものを、無理に言葉で言い表した単なる応急手段にすぎない。すなわちゲーテの”個性”とは、激しく力強い、それでいて粗野でも単純でもない、 強さと弱さが独特に交じり合っている特殊な生命力をそなえているところの、人々に最高度の注意を呼び覚まし、人々を最高度の引力で惹きつける作用であるにちがいない。 だが、この生命力がどのようにして生まれ出てきたのかは暗黒の裡に、創造を行う自然という実験室の秘密なのである。』 と、ゲーテの”個性”を説明しています。


彼の自己告白的表現から彼の独特な生命力での自己形成にいたるその過程、分断しないその過程そのものが、天才ゲーテの”個性”そのものだった。と、言う事でしょうか? ・・・・・・ まあ〜、凄い事には変わりありませんね!

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■ 幸福というものが、同時に 不幸の源になっている。
■ 涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない。
■ 実際の道徳の世界は、大半が悪意と嫉妬からなりたつ。
■ 僕はどうやらこの世における一っの旅人ということにすぎないようだ。
   君たちとてそれ以上のものだろうか?
■ 才能は一人で培われ、性格は世の荒波にもまれて作られる。
■ 哲学というものは、常識を分かりにくい言葉で表現したものにほかならない。
■ 結局、私の生活は苦悩と重荷に過ぎなかった。
   75年の生涯において、真に幸福であったのは4週間とはなかった。
   (75歳の時に書いたもの)
■ しょせん、人間なんていうものは、虜になっている牢の四壁に、
   はなやかな姿態や明るい希望を塗りたくっているにすぎないのだから。
   ・・・・ 「若きヴェルテルの悩み」からの抜粋

■ 自然は多くの生命を得るために死を発明した。

「※ 上記を科学面から考察」
三十数億年前に生命の欠片みたいなものが生まれ、それから約三十億年間の生物は、一つの固体に一人の親という分裂から子孫を造るという「不死性」でした。
約十億年前に、その「不死性」を捨てることを選択した生物が、二人の親を必要とした「性」を模索して、子孫を残そうとしました。その代償に「快楽/喜び」そして、「個体の死」や「多くの生命体」を得ました。




Charles Robert Darwin
1809年 〜 1882年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

”この地球上で生きたことのある全ての生物は、初めて息づいた原始的な生物の子孫である。”
生命をこのように見るのは壮大な事である。この惑星が、引力の法則に従ってめぐっている間に、最も簡単な最初の生物から、最も美しく、最も素晴らしい生物が、限りなく進化して来たし、今も進化しており、これからも進化し続けて行く事だろう。

ダーウィンは、当時の聖書の人間観や人類の”宗教的自己愛”にメスをいれた思想家でもあるのです。

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生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきたという「進化論」は、ジャン・バティスト・ラマルクにより提唱されたのが最初であり、その後ダーウインが進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高め「種の起源」を発表し、有名になる。
また、ジャン・バティスト・ラマルクは、元々は軍人で、植物学や動物学は独学で学び、進化説のキリンの首の例が有名で、チャールズ・ダーウィンは、母方及び妻に陶器で有名なウエッジウッド家(母:スザンナ・ウエッジウッド・妻:従妹のエマ・ウエッジウッド<十人の子をもうける>)を持ち、幼年時代は腕白で、かなりの嘘つき坊主だったようですが、成人(特にケンブリッジ〜ビーグル号)してからの彼の功績は万人が知るものです。
その当時・地球の始まりから歴史・生物の誕生など「聖書の教義」に反するような論理を公開することは、今の我々の常識では考えが及ばない位に大変なことで、1860年4月の新聞「エジンバラ」や7月の「ロンドン・クォータリー」などの批評は、ダーウィンを「人間性を欠き、堕落した野獣たることを〜」云々と決め付けている。 当時の宗教人や知識人の多くは彼の論理を認めれば、人間の地位が低下し、霊魂の存在が否定され、神も道徳も軽んじられると考えたようです。 さらに、この時代は、まだまだ「時間的スケール」が成熟してなく、当時の物理学者/ケルヴィン卿が言うように「太陽は誕生してから1億年も経っていない。」というのが常識で、聖書では、地球は今から1万年も経たない時期(紀元前4〜5000年)に誕生したとされているから、地球上の全ての生物は同じ起源を持つなどとは時間的にも困難であり、暴論と罵られた。
・・・・・・・・ それら諸々の事情が原因で、チャールズ・ダーウィンは晩年鬱病になってしまいます。

≪現在では、DNAに書き込まれた遺伝情報/核酸塩基(ヌクレヲチド:アデニン、シトシン、グアニン、チミンの4種類)の配列は人間とチンパンジーどころか狼やネズミ等と殆ど変わらない事や、蛇、鯉、ヤツメウナギ等とも多くの部分で共通した配列を持っている事が分かってきた。≫




Rene Descartes
1596年 〜 1650年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>


デカルトは、ヨーロッパ中を旅することにより”学び”を深めていった。 軍隊に入りヨーロッパ中を移動し、除隊後パリに移住し、その後オランダで20年近く暮らし、スゥーデン女王の招きでスゥーデンに移りその地で肺炎になり、1650年の冬に亡くなっています。
その頃のヨーロッパの哲学者達は、心と身体を分離し、全ての物質的なものは機械的論理で説明されていきました。 その流れの中心にいたのが「デカルト」です。
彼の著書「方法序説」のなかで 『 哲学者はどのような哲学的方法で、この哲学の問題を解くべきか、 』 と 問いかけている。 その彼は、この問いかけの”問題(哲学上の真理)”を、数学の定理のように示そうとした。その計算の道具として、「理性」を用いている。 なぜなら、「感覚」に頼っていてはたしかな答えを得ることが出来ないとし、「理性」だけがたしかな認識をもたらすと考えています。
そして、デカルトは、精神や生命の問題を除外し、物質やエネルギーに焦点を当てた思想展開をしていきます。

この論理展開をもとにしたデカルト思想が、近代自然科学思想のスタートラインを引いてくれた功績は、誰もが認めるところであります。  しかし、私には、精神世界や生命の神秘と自然科学を分離させ、無機的・機械的に事象を判断しょうとする論理には疑問が残ります。良かったのか悪かったのかは別にして、デカルト以降の社会は、物質世界(現代文明)を推進し、精神世界を片隅に追いやってしまいました。

■ 我思う、ゆえに我あり。
■ 自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である。
■ 良識は、この世で最も公平に配分されているものである。

先入観を排除し、真理に至るために一旦全てのものを疑い 「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは「真」であるという考えに至る。


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唯物論/物理主義的一元論は、シュタイナー思想と対じしているので、デカルトの「情念論」等とシュタイナーの書籍を読み比べるのも面白い。 私は、「シュタイナー」が「ルネ・デカルト」の論理を肯定できないことが分かるような気がします! 一度「デカルト」の本も読んでみて下さい。




Georg Wilhelm Friedrich Heger
1770年 〜 1831年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

近代哲学者の筆頭にあげられる哲人で、彼の思想は「ヘーゲル哲学」ともよばれる!
ドイツの代表的な哲学者・ドイツ観念論思想家でロマン主義者。
シュットゥガルトで父親が公務員で、母親は教育者の当時の典型的な中流家庭に生まれた。 また、彼はドイツの神学校で学ぶが、牧師の道には進まずに、 ロマン主義の中心地・ハイデルベルグの大学で教授になり、その後、ベルリン大学に移り住み、そこで1831年の冬(11月)にコレラで亡くなっています。
その頃のドイツは、ヘーゲル哲学の信奉者で溢れていました。・・・・ 凄い”哲学者”なんです! 因みに、( 横道にそれますが! )  私は、ハイデルベルグは大好きな街 です。/ ドイツは好きになれないのですが、この街は好きです。

彼は、弁証法的にものごとを考え、答えを導き出そうとしています。  例えば、存在!「ある」という概念について考えると、どうしてもこれと対立する「ない」という概念が脳裏に浮かぶ。 存在と非存在の緊張関係は、生成「なること」という概念に”止揚”される。 ”止揚”されるということは発展的に”解消”されることに等しい。
「なること」、つまり何かが生成過程にあるということは「なにかがあるけれど、同時に、ない」というこにほかならない。 ・・・・ ということなのです。

■ 真理は基本的には主観的なものだ。
■ 理性はダイナミックなものだが、ひとつのプロセスにすぎない。
■ 理性的なものだけが生きのびる
■ 男性と女性の違いは、動物と植物の違いのようなものだ。


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へーゲルが重要視したのは、非個人的なもので、そのことをへーゲルは、「客観的な力」と名づけている。
その頃の哲学者は認識の基礎的なこと(真理)を探究していたが、へーゲルは、認識は川の流れのように変化すると考える故に、恒久的な真理や理性は存在しないと考えました。  言い方を変えると、真理や理性は、時(時代)と場所によって変わると考えたようです。 
それこそ、彼を取り巻く時代(川)の流れ(思考)に逆らって、一つの哲学論理を定着させた人です。
上記の ”Descartes” の言葉と比較してください。・・・・・ 川の”流れの違い”が明確です。
 




Baruch De Spinoza
1632年 〜 1677年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

オランダ/アムステルダム生まれのユダヤ人の哲学者で汎神論者。
スピノザは、無神論者のように言われ迫害を受け、家族からも異端者あつかいされるが、神学者でもある彼は、言論思想の自由と信仰の寛容さを説いた人です。
ハイデルベルグ大学から招聘されるが思索の自由を重んじこれを辞退し、レンズ磨きなどで生計をたて、それこそ自己の思想に”磨き”を掛けています。
彼の思想は、デカルトの思想を規範にしデカルトの「我も思う 故に我あり」に対して彼は「我は思惟しつつ存在する」という言葉を残しています。

■ 我は思惟しつつ存在する
■ 人間は自然法則のもとに生きている。 / 神=自然、自然=神
■ 自然界のすべては、必然的におこる。
■ 人間精神を構成する観念の対象は、存在する身体である。


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スピノザとデカルトの違いは、
スピノザは、デカルトのように現実を二元論では捉えずに、実態は「神=自然」にあるとする一元論で捉えました。
その彼の著書には、知性改善論、デカルトの哲学原理、神学・政治論、幾何学的方法にもとづく倫理学、エチカなどがあります。  スピノザ哲学は、素直で易しそうですが、実に奥が深く難しい論理だと思います。 シュタイナー思想と並べて読んでみて下さい。 ・・・・ 訳が分からなくなります!





Sigismunt Schlomo Freud
1856年 〜 1939年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

フロイトは、オーストラリア生まれのユダヤ系/ユダヤ教徒の精神科医/唯物論的自然科学者で思想家でもある。
彼と並び言われるのが、カール・グスタフ・ユングで、彼との出会いや、相思相愛からの決別は有名です。
ウイーン大学で医学を学んだフロイトは、神経科を専門に学び、後に 「深層心理学」や「精神分析学」の分野を作っています。

フロイトは、人間と環境は常に緊張関係にあると考えます。 それは、人間の本能や欲望に環境がつきつける要求とのバランスに緊張や葛藤が生まれ、それらが人間の心や神経に影響すると考えました。
人間には、理性的ではない非合理な衝動があり、それらの基本的な欲望は形を変えて人間の思考や夢や行動に現れると考えました。 そして、その頃、タブー視されていた”性”に着目し、患者から性や子供時代の葛藤が、さまざまな精神障害の重要な原因の一つになっていることをつきとめています。
また、フロイトは、自我の中の良心として向き合うものとして、”超自我”というものを説明しています。  ”超自我”とは、小さなときから社会や両親から突きつけられる道徳的な命令や断罪が、自我の中に入り込み、その人なりに形成されその人の一部になっているものだそうです。
また、「潜在的夢思考」「顕在的夢思考」から判断し治療する、所謂 ”夢判断”法も有名です。

■ 意識は人間の小さな一部でしかない。その部位の多くは”下意識/無意識”や”前意識”である。
■ 人は、外傷的体験「トラウマ」を抑圧・封印する。

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鈴木大拙氏が言うところの”霊性”! 生まれた時代や環境・宗教・道徳体験がその人の思考や行動の多くに影響しているという論理! 否、その人そのものだという論理! と、繋がるものを感じます。
そのような考え方で、シュタイナー思想や先達の思考を捉えてみると、また違った景色が見えるかもしれません!





Carl Gustav Jung
1875年 〜 1861年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

スイスの精神科医・心理学者
ユングは、分析心理学(ユング心理学)で有名!
又、無意識にある概念と感情の複合体を”コンプレックス”との命名や集合無意識/元型論理 それに、前項の”フロイト”でも書きましたが、1907年頃からの”フロイト”との親交から、1914年頃に破局するまでの物語も余りにも有名ですので説明は省きます。

■ 孤独とは、自分の周りに人がいないために生じるのではなく、自分にとって重要だと思っていることを、他者に伝えられないことや、自分が他者の許容することのできない、何らかの観点をもつことにより生まれるものである。





IsaacNewton
1642年 〜 1727年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

あまりに有名なので、人物の概略説明はぬきにして、
ほかではお目にかかれない、ニュートンのおもしろい逸話を紹介します。

ニュートンは、自宅の玄関に”蹄鉄”掛けていたそうです。
(註)当時のイギリスでは、そのような行為は”幸運のお呪え”として行われていたそうです。
友達がニュートン宅に尋ねてきて、その蹄鉄飾りを見て、「君はそんなものを信じているのか?」とたずねると、
ニュートンは、「 いいや、でも効き目があるそうだよ! 」と、答えたそうです。
・・・・・ 人間的で好きなはなしです!

■ 世界の人たちに、私がどのように見えるか、私は知らない。しかし、私自身にとって、私は浜辺で遊ぶ少年のように思われる。私は、時々なめらかな小石や、ふつうより美しい貝殻を見つけては楽しんでいる。しかし、真理の大洋は、全て未発見のまま私の前に横たわっている。

■ 私は、天空を測った。そして、今は影を測っている。魂は天空に向かい、肉体は地球に眠る。
■ 霊魂は、主として、彗星から来たように私は思う。霊魂は、実際、私達の空気の中に含まれる最も小さな、最も微妙な、役に立つ粒子である。そして、それは、この地上のすべての生命を維持するのに必要なものである。


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万有引力の法則はあまりにも有名である。
彼やケプラーは、比較的簡単な数学的な法則が、自然界全てに行渡っていることを発見した。その法則は、地球にも天界にもあてはまるものだった。そして、正確な観測データーを尊重し、惑星の動きなどを正確に予測した。
近代科学の出発点的法則であり、物理的思考の源にもなっていますので、シュタイナーの「宇宙進化論」を含め、種々の考えを、この論理と比較して読むと面白いと思います。





Friedrich Wilhelm Nietzsche
1844年 〜 1900年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

ニーチェには、誤解と言うのか、種々の噂がありました。
ナチズムに多大な影響を与え、その土台になったとか、反ユダヤ主義者だったとか、或いは、彼はニヒリズム哲学を広めた、などです。
ナチズム云々については、彼の妹がナチの手助けをしたことやマルクス主義者の”ルカーチ(哲学者)”氏が、ニーチェ哲学はナチズムの基礎になっていると主張したことなどが誤解を広めたようです。
しかし、反ユダヤ主義者ではないし、ナチズムの手助けもしていないし、ニヒリズムを批判していた哲学の土台を築いていたのです。
----- 私が、彼に関する書物や叙述を読んで感じたことは、
彼の潔癖さによる論理が、自身の人生や行動/行為との矛盾を許せず、それに社会の誤解で、精神が崩壊していったのではないでしょうか。
又、キリスト教の教えや道徳・価値観に疑問を呈し、東洋(仏陀)的思考のショーペンハウアーに傾倒したことが、この時代のキリスト教の道徳が絶対である社会から孤立していったのではないかと思っています。
その頃の現世離れしたキリスト教道徳に基ずく社会を、批判していた人なのです。
----- これは凄いことなのです!《私見》

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彼は、思想的なことは、アルトゥル・ショーペンハウアーに、音楽的なことはリヒャルト・ヴァーグナー(<註>1876年頃からは批判的になる)に影響されています。
尚、ニーチェが、おかしくなっていく過程で、敬愛するヴァーグナー夫人(コージマ)に宛てた手紙がありますので、添付します。
「私が人間であるというのは偏見です。
私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。
アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。
リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。
十字架にかけられたこともあります。
愛しのアリアドネへ、・・・・・ ディオニュソスより。」
この手紙で分かるように、44歳(1888年)頃から精神が崩壊していきます。
ニーチェのようにまじめに・人生を哲学的に探求した人は、精神が崩壊していくか、自死に至る場合が多いですね。(ニーチェの場合は、病気〈脳梅毒・脳腫瘍〉説があります。)


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■ ”無”
我々は永遠の無の中を漂っているのではないだろうか。
■ 理性
肉体は大きな理性であり、精神と呼ばれているものは小さな理性なのだ。
■ 体験
勉強して本を読むだけで賢くなれはしない、さまざまな体験をすることによって人は賢くなるのです。もちろん、すべての体験が安全だというわけではない。
体験することは、非常に危険な場合もあります。ひどい場合には、その体験の中毒や依存症になってしまうからです。
体験しているときはその事柄に没頭することが肝要です。途中で自分の体験について冷静に観察するのはよくない。そうでないと、しっかりと体験したことにはならないからです。 反省だの観察だのといったことは、体験のあとでなされるべきです。そこからようやく智慧というものが生まれてくるのだから。
■ 尊敬
自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめにしばってしまうようなことになります。そうでなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬することです。 自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなります。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものです。 そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるよう人間になっていくことができます。 それは自分の可能性を大きく開拓し、何かをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しましょう。
■ 世間
世間にありながら、世間を超えて生きる。
世の中を超えて生きるとは、まずは、自分の心情のそのつどの動きによって自分があちらこちらへと動かないということです。情動に振り回されない、自分が自分の情動という馬をうまく乗りこなすということだとも言える。 これができるようになると、世間や時代のそのつどの流れや変化にまどわされないようになります。そして、確固たる自分を持ち、強くいきることができるようになるのです。
■ 怒り
怒りっぽい人、神経質な人は、まさにそういう性格を持った人であり、そのような性格はずっと変わらないものだと私たちは信じている。人の性格は変えられないと思っている。 しかし、怒りというものは、いっときの衝動だから、自分で好きなように処理できるものなのです。怒りをそのまま表に出せば、短気な人間のふるまいになります。ところが、他の形に変えて外に出すこともできます。抑え込んで消えるまで待つこともできます。 怒りのような衝動の他に、自分に湧いてくる他の感情や気持ちもまた同じで、私たちは自由に処理したり、扱ったりできるのです。まるで、私たちの庭にはえてくるさまざまな植物や花を整えたり、木々の果実をもぎ取ったりするかのように。

■ 人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めてさえいる。
■ 『 amor fati 』 / ニーチェが好んで使用していた言葉です。
ラテン語で、自分に与えられた”運命”が、たとえ悲劇的であっても、その”運命”を愛する。という意味です。

≪参考≫ 超訳「ニーチェの言葉」 / 白取春彦 翻訳の書物があります。





Arthur Schopenhauer
1788年 〜 1860年
<※ シュタイナー思想と共に考えることをお勧めします。>

■ 人生とは、苦悩と退屈のあいだを、振り子のように揺れ動くものだ。

西欧近代文明の”死”を遠ざける思想が中心の中で、東洋的な”死”と向き合う考え方で有名なドイツの思想家です。
ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)は、日本では余り知られた存在ではないようですが、多くの思想家に多大な影響を与えた哲人なのです。
そのショーペンハウアーは、仏陀思想の影響も受け”生”は紛れもない苦であると考え、人生は決して明るいものではなく、影の部分にこそ”生きる”意味合いがあるという考えで、「厭世哲学・思想」とよばれた。
厭世哲学の考え方は誤解されやすく、悲観的(ペシミズム〈pessimism〉)思想として考えられやすいのですが、本来はオプティミズム(optimism)思想とまでは言えないまでも前向きな考え方で、人間は100%死すべき存在であることは否定できないのだから、そこに軸足を置き、どのような文明を築くかを考えるべきではないかとし、その為には人間の欲望等を真摯に考えて、出来れば放棄するよう努力すべきとする、実に真っ当な思想ではないかと思っています。
又、彼は、夢や超常現象、宗教にも興味を示している。そして、彼の思想は、ゲーテやアインシュタイン・ヘッセ・ワグナー・フロイト、ユング・サルトル・ニーチェなどの思想家・芸術家・音楽家・作家など多くの人々に影響を与え、代表的な著作には「意志と表象としての世界」・「孤独と人生」・「生理的色彩論」や「自殺論」等がある。

※ 以上の思想家や科学者などの書籍と共に ”フロイトやユング” の研究・著書も参考になりました。





Anaxagoras
アナコサグロス
紀元前500年頃〜 428年頃

あまりメジャーではありませんが、面白い考え方の古代ギリシアの自然哲学者ですので、紹介いたします。
彼は、あらゆる物体は限りなく最小限に分割される。とし、その最小限の物質の構成要素を”スペルマタ(Spermata)=種子”と呼び、宇宙のあらゆる物質は、このスペルマタの混合によって生じると考えました。
無秩序だったこのスペルマタは、”これまた宇宙に存在するヌース(Nous)=理性、知性或いは精神”の働きによって整理され、秩序ある宇宙の世界が誕生したとする思想です。
驚いた事に、2500年も前! 仏陀(釈迦)と同じ時代に、太陽は、ただ燃えさかるい岩石であるとし、月は、その太陽の熱から発する光で輝いていると説いている。
参考 / アリストテレスは、最初はアナコサグロスの論理に興味を持ち、その思想を積極的に学んでいるが、理性(ヌース)と魂を区別しそこなった理論として、批判するようになっています。




Thaddeus Golas
< 『なまけ者のさとり方』 山川紘矢・亜希子氏訳/地湧社 >

”良い加減に学ぶ”私の愛読書です。

《 私達はみな平等です。そして、宇宙とは、私達のお互いの関係です。宇宙は唯一種類の実態から出来ていて、その一つひとつが生命を持ち、一つひとつが自分の存在の仕方を自分で決めています。》
《 あなたが今、どんなことをしていようとも、そうしている自分をそのまま丸ごと、愛してあげて下さい。》
《 自分がやっていることや考えている事を否定したり、批判したり、それに抵抗したりしない事です。 》
《 地獄さえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです。 》



Ralph Waldo Emerson
<神秘・超越思想(トランセンデンタリズム)>
1803 〜 1882

今までに何を食べたかと同様に、どんな本を読んできたか、もう覚えていない。
けれども、そのどちらをもが今の私を作った。
きみの心に書き記せ 「くる日、くる日が最良であることを。」
互いに許しえない唯一の罪は意見の相違である。
一貫性などというものは、小人の心に宿るお化けみたいなものだ。
我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し、人間の内には全なる魂がある。それは智者の沈黙であり、この世界の美である。 全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。 見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。 我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。

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《 Ralph Waldo Emerson
無教会主義の牧師、思想家、哲学者、作家、詩人そして、米国社会に対して、「奴隷制度」の撤廃を強く訴え続けたことでも有名な、超越思想/超越主義を唱えた人物。

超越思想(トランセンデンタリズム) / ラルフ・ワルド・エマーソンが主体になり、認識の限界を「超越」し、万物の根源であるとした”霊/魂”に基軸を置いた思想。 シュタイナー思想と一緒に学ぶのも良いかもしれません。
現在の『唯心論』が『超越的』という名称を得たのは、もともとはイマニュエル・カントがそういう表現を用いたことに由来します。 カントは理知の中にはあらかじめ感覚が経験しなかったものは何一つないと主張するロックの懐疑論哲学に答えて非常に重要な一群の理念、つまり権威ある形式があって、これは経験によって生じるのではなく反対にこれによって経験が得られること、こういう形式は精神そのものの直感だと説き、これを『超越的』形式と名付けたのです。 彼の命名はヨーロッパとアメリカで流行し、現在でも直観的思考という部類に属するものなら何だろうと『超越的』と呼ばれているほどです。




Aurelius Augustinus

「悪」は「善」の反対にあるものではなく、「善」の不在にすぎない。
つまり「悪」はそれ自体としては存在しないものなのである。


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私には、多くのキリスト教関係者は同様の考えを持っているように思えますが、「善悪二元論」/「マニ教的善悪二元論」は、どのように捉えているのか?  そして、シュタイナーの善悪論は? 「善」とは一体何なんだ?(余計に分からなくなってしまった。) 人間は何故に苦しむのだろうか? このような事を念頭に、キリスト教関係書籍やシュタイナー書籍を読むと勉強になります。 又、シュタイナー書籍は難しい叙述ですが、どうせなら眉間にしわなど寄せずに、このように考え楽しく読みたいものです。
【参考】
「マニ教(グノーシス主義)的善悪二元論」とは、肉体を悪とみなし、霊魂を善の住処としている。





作家 / Georges Bernanos

■ 信仰というものは、99%の疑いと、1%の希望だ!

敬虔なクリスチャンのフランスの作家、ベルナノスの言葉!
人間の生の声のような気がして、好きな言葉です。





宇宙物理学者 / Carl Sagan

■ 私達は奇妙な考えを持ち続けてきた。
私達が誰で有れ、自分よりほんの少し違う人間や社会に出会うと、私達は、その人間や社会を、見なれぬ異様なものと考え、信頼できない、いやなものだと思ってきた。
「異国の」とか「異人の」のとかいう言葉には、否定的な言葉が込められている。

宇宙的な見方をすれば、私達の一人一人が貴重なのだ。
私達と意見の合わない人たちがいても、その人たちも認めようではないか。1000億個の銀河の中にさえ、私達と同じものを見つけることはできないのだから。
私達は宇宙の片隅で形をなし、意識を持つまでになった。私達は、自分達の起源について考え始めた。星屑が、星について考えている。 100億の10億倍の、その又10億倍もの原子の集合体が、原子の進化について考え、ついに意識を持つに至った長い旅のあとをたどっている。
私達は生き残らなければ成らない。その生存の義務は、私達自身のためだけのものではない。
私達は、その義務を宇宙に対しても負っている。
時間的には永遠、空間的には無限の、その宇宙から私達は生まれてきたのだから・・・・・・





生命科学 / 渡辺 格

日本の生命科学・DNA研究の草分け的存在/医学・理学博士

≪デカルトの盲点≫

近代自然科学を物質やエネルギーの研究に向かわせた人物の一人が、デカルトだった。
「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉を残しながら、デカルトは実際には、精神の問題を除外した。そこには、宗教的な背景もあったようだ。「精神の問題にはかかわりません。それは神にお任せします。」という逃げだ。
そのうえでデカルトは、生命の問題を除外した。 脱精神、脱生命を経て、物質の研究に向かったのである。これが近代自然科学の出発点である。もちろんそれはそれで、評価すべきだろう。
当時の情況を考えた場合、はじめから精神や生命の問題を含んだままで自然科学は成立しない。その時代に、デカルトの選んだ方法は、それなりに正しかったのだ。
いうまでもなく、宇宙の始まりは人間ではない。 したがって、人間がつくり上げた概念としての神も、宇宙には存在しない。初めに神ありきではないのだ。宇宙に最初に存在したのは、物質やエネルギーの世界である。
しかし、デカルトの方法でたどり着いた物質やエネルギーの世界が、どこに向かったのか?
生命世界を生み出し、そこから精神世界が生まれた。物質は、生命や精神の方向に向かってきたのだ。 その意味では自然科学もまた、生命や精神の方向に向かわなければ成らない。
現在なら、常識的な考えも、当時は全く非常識なものだった。物質世界と生命世界、さらに精神世界は、それぞれ別個だという考えだった。 それに対して、基本的には物質の世界があって、そこから生命の世界が始まり、次に精神の世界、さらに、未知の”X"の世界に向かっているというのが、私の予感だ。それを自然科学的に明らかにすれば、文明自体も変わる。
それこそが、自然科学の役割ではないのかと思うのだ。





村上春樹/UnderGround2

現実というものは、もともと混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではない。 そして、一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復習する事でしょう。





精神医学 / 河合隼雄

善悪を二つに割ってしまって、これは善、これは悪というのは、へたをすると危険な事になります。 善が悪を駆逐するというか、そうすると善は何をしてもかまわないということになってしまいます。それが一番怖い事です。
これは昔から言われている事だけど、悪のための殺人って非常にニーズが少ないです。それに比べると善のための殺人というのはものすごく多い。戦争なんかそうです。 だから、「善」が張りきりだすとすごく恐ろしい。でもだからと言って「悪がいいです」なんて言えませんから、すごく困るんです。

瀕死状態 ( near death experience )になったときの人間の意識は、確かに近代科学では説明不能な不思議な知覚ををする事は事実であろう。 しかし、それはそのような不思議な意識状態が存在し、その意識にとっては死後生の如きものが認知されたという事であって、死後生そのものの存在については、我々は判断を留保すべきである。




免疫学 / 多田富雄

免疫というシステムは、単に体の中に進入してくる異物を拒絶し排除する自衛的な働きをしているだけではなく、自己と非自己というものを非常に厳しく明確に区分けして<自己とは何か>というものを決定するのが免疫の大きな働きです。 そして、その免疫は異物を拒絶するだけではなく、その異物と共存する作用も持ち合わせているのです。
例えば、母親の胎内に出来た新しい子供の生命は、母親という<自己>にとっては<非自己>なのですが、それがどうして拒絶されないかといえば、免疫の中に<トレランス/寛容>という働きがあり、単になんでも排除するのではなく、<自己>の中に<非自己>を共存させていく側面も持っているという事実を確認できます。

■ 男は現象、女は実体。

免疫学的には、自己と非自己というものは寛容に、したたかに共存しなくては、人間そのものが存続していかないということになります。



インド/彷徨の旅で!
Sadhu India / Sadhu(無名の修行僧)

本物の”Sadhu”に会いたいと思い、探しているのですが会えないか?
又、無心になれるものか?
それは、君が”Sadhu”になってみなければ探せない。 又、君が思っている本物とは、君が勝手に思っているだけで、そんなものは、いないと思う。 もしいたとするなば、それは 君の心の中にいるものではないか。

”無”の思いとは、何も考えないという事も考えない事だ。
無心になろうなどとも考えない事だ。


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■ ※ インド・バラナシのガンガー(ガンジス河)で沐浴していたインド人との会話です。

※ ≪ 情景に感激して ≫ ※

私: 何をお願いしているのですか?
「今日、悪い事をしてしまったから、許してもらっている。」
私:それは良かった、明日からは真面目になるんだ?

「明日の夕方 又、ここで会おう。 
おいらは、お前さんと違って、遠い外国に行く余裕なんて無い!沐浴をカメラで撮って、涙ぐんでいる暇なんて無い! ただただ生きるだけで精一杯なんだ。
だから毎日盗みをして、夕方 ガンガーで謝る。・・・・・ この繰り返しだ。 / あっちへ行け!


※ 総括として、大馬鹿の見本を”インド編2題”記載いたしました。 ・・・・・ 参考になれば幸いです。
善も悪も、簡単な真理や正義も含め、自分の視点でしか物事が見えなくなる時があります。
上記・インドでの会話や質問が、まさにそれです! / 大馬鹿な私の一番・心に染み入る言葉になりました!



そして、≪仏教≫と≪キリスト教≫

≪仏教≫

「平和」の宗教・仏教 / 仏教には、生きとし生けるものを殺してはいけないという「不殺生戒」があり、如何なる戦いも否定しています。 その開祖:ゴータマ・ブッダは「死」を、「点」としてではなく、人間の内側にあるものとして、あたかも氷が溶けていくように人間は毎日毎日、少しずつ死んでいく「連続的変化」と考えました。

又、死後の世界観ですが、昔のインド人(バラモン教>ヒンドゥ教)は、現世を以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分け、人間は、この六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えていました。  釈迦は、六道輪廻に加えるように極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えました。これが、輪廻からの解脱(moksa)ということになり、まっとうに輪廻を遂行すれば”双六でいうところの上がり”があることを説きました。

釈迦像 インドでゴータマ・シッダッータァの足跡を辿り、あの ”Gaya(現在の地名はBuddha Gaya)” の岩山(洞窟)や樹木(菩提樹)の下でミィラみたく痩せ細って瞑想するシッダッータァを思い、現在でも過酷な環境(土地)なのに約2500年前はどんなだったかと想像すると、自然に合唱し念仏を唱えてしまいました。
Gotama buddha (Gotama Siddhattha)

■ 人生は苦なり
■ そして、入滅時の言葉 ・ この世のなんと甘美な(素晴らしい)事か!

「中道」
「縁起」 十二縁起 / 無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死
「四諦」 苦諦・集諦・滅諦・道諦
「八正道」 正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定

過去を追うな。
未来を願うな。
過去は既に捨て去られた。
そして未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
それがあるところにおいて観察し、
揺るぐことなく動ずることなく、
よく見極めて実践せよ。
ただ今日なすべきことを熱心にせよ。
誰が明日の死のあることを知らん。
善因善果・悪因悪果の教え

まだ悪の報いが熟しない間は、
悪人でも幸運に遭うことががある。
しかし、悪の報いが熟した時には、
悪人は、災いに遭う。
まだ、善の報いが熟しない間は、
善人でも災いに遭う事がある。
しかし、善の果報が熟した時には、
善人は、幸に遭う。

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■ 現在のインドの仏教 ■

左の写真は、ブッダが難行苦行した岩山で、右の写真はどんな苦行で悟っても人の世で 元に戻るのでは本当の悟りではないと、山を降り身体を癒したネーランジャラー河(雨季/右背後に修行の岩山が見える)で、この河の左に 悟りを開いた菩提樹があり、右にスジャータ村(セーナーニ村)がある。

時期をづらして何回か訪れ、牛糞で造られた民家にもお世話になりましたが、インドでも最も貧困な所でお湯の中に浮いている穀物が主食でした。約2500年も前に 凄い所で修行と瞑想をしたものだと 毎回驚かされ身の引き締まる思いでした。気温は40度前後。

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紀元前5世紀・インド(天竺)で生まれ、紀元前3世紀ごろには、全インドを統一した「アショーカ王」は仏教に帰依し、インドの国教にまでなった仏教ですが、現在のインドの宗教比率は、驚く事に下記の通りです。
インドを旅していた時に「インド(ヒンドゥー教)の人々」に聞きましたが、これには複雑な理由があります。その一部を、凄く!簡単に言いますと、人々を身分制度(カースト制度=ヴァルナ・ジャーティ)から開放し、全ての人の平等を説いた事により「アウト カースト=ハリジャン」の人々が多く仏教に帰依した事にもよるのです。
理想と現実!・・・・・・・・ 人間のサガ・涙が出るくらいにクダラン! / 何とかならないものか?

≪現在のインドの宗教人口割合≫
ヒンドゥー教 * 82 % / イスラム教 * 11 % / キリスト教 * 2.5 % / スィーク * 1.9 % / 仏教 * 0.7 % / ジャイナ * 0.5 % / ゾロアスター * 0.1 % / その他



また、仏教というと思い出すことがあります。
”Buddha Gaya”の安ゲストハウスで同室だった50歳(私も同じ歳でした。)のフランス人”戦場”フリーライター。
彼の奥さんはパキスタンでクリスチャンとして奉仕活動をし、お嬢さんはボスニアで難民救済の為に奉仕活動をしていて、年に一度だけ1週間位(今回は)インドのニューデリーで家族が再開するとのこと。 その彼がフランス語版の「日蓮と親鸞」という本を読んでいて、”平和”の宗教/仏教に帰依すると打ち明けてくれたこと。


仏教 / India ・ Bodh Gaya
釈迦/悟りの菩提樹

キリスト教 / India ・ Calcutta
Missionary of Church
マザーテレサ/棺



≪キリスト教≫

「愛」の宗教・キリスト教 / 私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り物です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事ができません。 神を愛する人は、兄弟も愛するべきです。 これが、神から受けた掟です。- 【ヨハネ】


イエス・キリスト Kiriste
キリスト教徒には有名な「サウロの回心」のサウロ(=パウロ)のことですが、彼は、キリスト教をユダヤ教の一つの異端教派から世界的な宗教に変えた人です。 彼は、初めは熱心な「ユダヤ教徒」で「キリスト教」の迫害者だったが、「サウロの回心」にあるような光の体験後、熱心な「キリスト教徒」に回心し、世界宗教・キリスト教の存在にはなくてはならない人になっています。 / 一時の行動では、人間は判断できないということです。
又、私はクリスチャンではないのですが、ある本で読んだアウシュビッツでの「コルベ神父」のことや、 コルカッタのマザーテレサ/「死を待つ人々の家」での体験が思い出され、”信仰”の持ちうる優しさや凄さを感じます。


マタイ-福音書
明日のことを思いわずらうな。 明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。
汝らの敵を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。



キリスト教の布教

Rudolf Steiner
キリスト教は地球進化期の目的に従って、大部分の人類が超感覚的な認識力を発達させていなかったちょうどその時期に、布教を始めなければならなかった。 その為に、伝承の力は、当時あれほど強力なものになったのである。
自分では超感覚的世界をのぞき込めない人々を、超感覚的世界への信頼へと導くためには、きわめて強い力を必要としたのである。 イマギナツイオーン、インスピラツイオーン、イントゥイツィオーンによって、高次の諸世界に高まることのできる人々も、ほとんど常に(13世紀の短い例外的な期間を別にすれば)存在していた。 そうした人々は、古代の秘儀参入者たちの、すなわち秘儀の知の指導者や仲間達の、キリスト生誕以後の後継者達であった。 この人々は、古代の秘儀 - 認識によって獲得できたものを、自らの能力によって再び認識するという課題を持っていた。 そして、その認識に加えて、キリスト - 事件の本質についても認識しなければならなかった。 そのようにして、この新しい秘儀参入者たちのもとで、古代の秘儀参入の対象であった全てのものを包括するように認識が生じた。 だが、その認識の中心には、キリスト - 事件の秘密についての高次なる知が輝いていたのである。・・・・・・後略


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宗教詩(キリスト教) ≪神われらと共に  (別名・浜辺の足跡)≫

ブラジル詩人
Adhemar de Paros
元詩 / Footprints
Margaret Fishback Powers

夢をみた、クリスマスの夜。
浜辺を歩いていた、主と並んで。
砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった。
私のそれと、主のそれと。
ふと思った、夢のなかでのことだ。
この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると。
立ち止まって後ろを振り返った。
足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている。
ところが、一つのことに気がついた。
ところどころ、二人の足跡でなく、
一人の足跡しかないのに。
私の生涯が走馬灯のように思い出された。

なんという驚き、一人の足跡しかないところは、
生涯でいちばん暗かった日とぴったり合う。

苦悶の日、
悪を望んだ日、
利己主義の日、
試練の日、
やりきれない日、
自分にやりきれなくなった日。

そこで、主のほうに向き直って、
あえて文句を言った。

「あなたは、日々私たちと共にいると約束されたではありませんか。
なぜ、約束を守ってくださらなかったのか。
どうして、人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのか、まさにあなたの存在が必要だった時に」


ところが、主は私に答えて言われた。



「友よ、砂の上の一人の足跡しか見えない日、
それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ」

ある晩、ひとりの男が夢をみた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いていた。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生がパノラマのように映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生の最後の場面が映し出され目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあることに気がついた。

しかもそれは、彼の人生の中でも、最もつらく、悲しいときばかりであった。

すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。 しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

神は答えられた。

「わが子よ。
私の大切な子よ。
私はあなたを愛している。
私はあなたを見捨てはしなかった。わたしは、いつもあなたと共にいた。



あなたの試練と苦しみのときに、ひと組の足跡しか残されていないのは、・・・その時、わたしがあなたを背負って歩いていたのだ」






”筆者の独り言コーナー”

≪ 命題 ≫

”人間”とは何なのか? / ”我(私)” とは何なのか?


インド:サドゥ

≪ 無題 ≫
”人生は、地獄よりも地獄的である”
≪芥川龍之介≫

”地獄さえも愛することができるようになれば、
あなたはもう、天国に住んでいるのです”
≪Thaddeus Golas≫



惚けるか、存在を消し去るか! 生きていれば厭な事・辛い事の連続です。 楽しい事などほんの一瞬、それが人生! 私は、実感としては上記・芥川龍之介の言葉に共感できるのですが、これだけでは暗闇に突っ込んでしまうような気がしてしまう。 しかし、、タデウス・ゴラスの言葉だけではポジティブすぎてニヤケテしまう。 それが、両方の言葉を組み合わせると、実に絶妙なレトリックになり、まるでジャズのセッションのようでもある。


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" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY " ......
A .A .fromnow * Do-seki (道石)
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