A.A.fromnow Human Report - Rudolf Steiner | Prologue NO2 |
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Prologue NO2 |
Rudolf Steiner
1861・2/27 〜 1925・3/30 (享年 64才) | ||
" Goetheanum "
Ruttiweg 45 CH 4143/Dornach 1 Switzerland |
シュタイナー思想 / 人智学 ・ アントロポゾフィーの”広場”
≪ 自然科学 - 精神科学/神秘学の垣根を越えて ≫ |
Rudolf Steiner | |
人間を考察する場合に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なによりもまず、人生のあらゆる観察の上に大きな謎のように立ち込めている現象・すなわち”死”へ注意を向ける必要がある。 |
そして、死と関連して、いわゆる生命のない自然、常に自らの内部に死を担っている鉱物界へも注意を向ける必要がある。 そうするときに、超感覚的認識によらなければ十分に解き明かすことが不可能である諸事実が言及される |
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≪ 自然科学 - 精神科学/神秘学の垣根を越えて - No1 ≫
学問的に捉えるのか或いは、宗教的に学ぶのか |
”宗教”と”学問/科学”の学び方の違い! |
≪ この種の学びでは、目を逸らすことのできない課題だと思っています ≫ |
自然科学 > |
< 精神科学 |
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科学 |
シュタイナーは、Anthroposophie (人智学) を、”宗教”ではなく”科学”であると述べています。
そして、現代では互いに離反してしまった 「科学」と「宗教」と「芸術」の再統合を目指そうとしました。 |
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Geisteswissenschaft / Anthroposophie * ≪ 精神科学 / アントロポゾフィー ≫ 科学/学問ならば - 束縛はありません! 疑義などの思いも述べることができます。 |
自然科学分野では科学の進歩や多くの人の頭脳により、同じ土俵上で、矛盾や謎を指摘し解き明かすことができますが、
精神科学の分野では、多くの方々には、学説(?)を述べている人と同じ景色が見えず、同じ土俵での論理展開が難しいように思えます。 A.A.fromnow Human Report 「第六項」の《シュタイナー研究 / 精神科学と自然科学》でも「現代の医学的情報からの”不死と末生:臨死体験”」 で簡単に自然科学サイドからの精神科学的謎に迫ってみましたが、 レイモンド・ムーディ医学博士/USA が、述べている、 『 臨死体験を持って死後の世界の存在証明であると考える人もいますが、 私は、これはそういう証明にはならないと思っています。 かといって、一部の人が主張するように脳内の現象として、脳生理学や精神医学が説明できるとも思わないのです。 つまり、科学的にはどちらとも決着がつけられない問題だと思っています。』 という解釈になってしまいます。 ---- ですから、現時点では、”修正や補足”と言っても無理だと思いますので、この分野の論理/学説については、中立・中庸の見解で捉えることに尽きるのではないでしょうか!
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* Geisteswissenschaft / Anthroposophie *
≪ 精神科学 / アントロポゾフィー ≫ 宗教ならば - 信じることでしかありません! 疑義や自分の思いなどは述べてはいけません。 ☆ 信じるものは救われ、信じられぬ者はその場から去るのみです ☆ |
キリスト・イエス | インドのブッダガヤで教を読む”チベット僧” | ゴータマ・ブッダ |
最初に! 宗教には多くの利点があります。
そのうちの一つが、自我の”ナルシシズム”を抑える生き方を、神や仏の下に教示されていることです。
人間は、貪欲に物質欲や快楽に突き進み、満足できない時には怒りへと変化する生き物なのです。
だから、宗教 そして、神や仏!は、人間には不可欠なのです。
ところで、私が目にした、医学書や哲学書、宗教学者などの書籍によると、------ 自我の欲求や怒りなどは、医学的には、理性は脳の表面を被っている大脳新皮質の働きによるが、本能や欲望、怒りや恐怖等の情動は、大脳新皮質の下にある大脳辺縁系の働きであり、 人間は、理性と情動を連動させることが出来る珍しい動物であるらしい。 この脳の前部・前頭葉(前頭連合野)が巨大化し「自我」という機能を有するようになり自己同一性が保持された。 その結果「死」の恐怖も生まれ、それらの恐怖から免れる方法として『 体が滅んでも、精神(魂)は不滅である 』という考え方が生まれ、宗教などの根本思想となった。 そして、人間が発明した極めて優秀な「心の安定装置」でもあると考えるようにもなる。 この「心の安定装置」/ 宗教での「怒り」の捉え方は、正常な判断力を弱め、自我の弱体にも繋がるので、人間の低次な感情表現と考え、キリスト教では、七つの大罪の一つとしています。 仏教でも、怒りを克服しない人間は「地獄界の精神状態へ導く」と考え、死後最も悪い状態に魂が行く事になるとしています。
宗教には信じるという”縛り”の元に学びがあります。 しかし、学問として捉えるならば”縛り”があってはなりません! 私は、宗教的に信じるという行為ではなく、学問ならば誰でもが一定の筋道を辿れば同じ景色が見えてくるはず! との思いから、シュタイナー思想/人智学に基ずく”学びや修練、瞑想”を重ねてきましたが、霊的な感性が全くなく、且つ愚鈍な私では幾ら努力(学び・修練)をしても、 シュタイナーと同じような景色が見えたり・体験できたりはしていません。 ですから、”学問”的には理解できない部分が多々あります。 それでも、この学びを続けているのは、”縛り”のない思考や正しく生きる座標的要素が多くあるからです。 |
” 信じる ” |
「信じる」という事は、人間の尊厳的行為であると共に、悩める人々を別の世界へ導いてくれることもあります。
ですから、その先にある宗教、或いはその教義や行為を批判したり/侮蔑することは、クリスチャン、ムスリム、ヒドゥー、ブディスト、なんであろうが、信じる方達を傷つけますので、恥ずべき行為です。
----- 仮に、ご神体が”鰯の頭”であってもです。 又、「信じる」ことにより、救われたり・間違いも起こします。 その繰り返しが、「信じる」ことや「宗教」の歴史でもあります。 誤解を恐れずに言わせて戴くと、「オーム真理教」のことでさえ同様に考えております。 救われた人々もいたのでしょうし、間違いも起こしました。 この出来事(「信じる」行為)は、悲しい結果になってしまいましたが、結果を恐れていては「信じる」行為は打算になってしまいます。 ----- 「信じる」とは、「宗教」とはその様なものだと思っております。 ※ キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教にも上記の繰り返しの歴史があります。 |
Gautama.Siddhaartha - 仏陀/ 釈迦 |
修行の岩山を下り、ネーランジャ河〜バラナシ郊外のサルナートへ | |
仏陀は、隔離された難所(岩山)での苦行のすえに、答えはこの先にはないと考え岩山を下ります。 そして、社会/日常生活の中での修行/修練こそ真の悟りに繋がり、その先に自分自身が求めている答があると考えました。 --- 難行苦行や黙々とする修行こそ悟りの道であるとし、自分を見限った修行僧達を前に、仏陀は、サルナートの初転法輪で何を教示し、伝えたのか? |
”シュタイナー思想 / 人智学 (アントロポゾフィー)”の特集ですが、
仏陀の着眼点は全てに繋がりがあると考え、 この点を念頭に置きながら前に進むリポートです。
リポートの内容は、命、人生という劇と劇場、人々の心の奥底にあるもの、ユングと曼陀羅、宗教と科学の違い、自然科学と精神科学の融合や学びの姿勢、 学びや集まりの注意点及び姿勢 、自と他 / 西洋と東洋、人間・我(私)とは何なのか?、快楽/苦悩/欲望 、幸/不幸などを考察してます。 |
Mohandas Karamchand Gandhi |
1869 - 1948 | |
Albert Einstein (1879〜1955) > about Gandhi
Generations to come will scarce believe that such a one as this walked the earth in flesh and blood! |
ガンジーの言葉です。・・・・・・・> My Life is My Messege
私はヒンズー教徒として本能的に全ての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。 全ての宗教は同じ神から発している。 しかしどの宗教も不完全である。 なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ。 さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通じるさまざまな道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないのではないか。 / Mohandas Gandhi |
※ ≪ 私が得た、この種の学び方の回答 ≫ | Gautama | |
「 一点に妄信的に進むのではなく、冷静にそして俯瞰的にその一点や自分の立ち位置を見つめなおす / 執着や対比から離れる! 」 私が解釈するところの”ゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えの一つ”です。 |
” 悩みながらですが、この姿勢で特集は進みます ” |
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IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY "
* Geisteswissenschaft / Anthroposophie * |
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≪ 自然科学 - 精神科学/神秘学の垣根を越えて - No2 ≫ 一点に妄信せずに、多分野の知識/智恵も学ぶ |
≪ 自然科学と精神科学の融合や学びの姿勢 ≫
生命科学・分子生物学者 / 渡辺 格 : 1916 - 2007
免疫学者/ 多田富雄 : 1934 - 2010
レイモンド・ムーディ医学博士 / USA
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”学び”や”集まり”の注意点及び姿勢 |
詩人・思想家 / 吉本隆明 : 1924 -2012 共同幻想論や心的幻想論などの書籍がある 吉本隆明氏が、”親鸞復興”という書物の中で”思想と広場”について述べています。 「 ぼく自身の思想の解釈になりますが、大勢の人からなる思想というか、大勢の人のためになる思想というものは、そこに入る入り方と出る出方がついていないといけないと思うのです。 個人の思想ならば必要ありませんが、教団にせよ政党にせよ、集団の思想には入り方とやめ方の道がついていなければならない。 政党でも宗教でも思想集団でも、入ってくる人は歓迎するが出て行く人は歓迎しないというようでは、思想としては駄目だと思います。 どうしたら入っていけるのか、どうしたら出て行けるのかという道筋がついていない思想、つまり過程が入っていない思想は「広場」には出て行けないということです。 又、ぼくの現在に対する問題意識は、宗派思想や政治的には党派思想が敗れたのではないかということが世界的規模で言えるということです。 しかし、思想のもとになった”人と不可分”の入り方と出方の道筋がはっきりついている思想は、別段滅びたわけではありません。 修正すべきところとか検討すべきところが沢山あるかもしれませんが、その思想が滅びるということにはならない、ぼくはその様に考えています。 現在、ぼく達が当面している問題もそこにあると思います。 いま、世界が当面している問題は、政治思想の党派が滅びる事によって国家が解体したり、混乱している情況の中で、どのような思想が有効なのかということを考えなければならないことです。」 |
歴史社会学者 / 小熊英二 : 1962 〜
単一民族の起源、若者達の叛乱とその背景、日本人の境界などの書籍がある 小熊英二氏が、「単一民族神話の起源」という書物の中で”集団”と”個人”について述べています。 『日本の集団観においては、まず個人があり、それが集まって集団ができるとはされない。 まず、<集団>があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである。 そのため、集団の本流は常に中心のない<みんな>であり、<個人的意見>は、常に傍流とされる。』 日本社会は、天皇を頂点にした”村/村八分”的な構造で、同じ色(思考)以外は受け入れない。 或いは、異色なものは除外することで成り立っています。 そして、融和を尊重するあまりに建前論が優先する社会!だと述べています。 作家 / 村上龍 : 1952 〜 村上龍氏も 「 MEN ARE EXPENDABLE.VOL - 6 」 という書物の中で日本及び日本人の”個人観”について述べている。 『個人の概念が未発達な国では、個人というのは集団から疎外されることによって際立つ。 たとえば、メディアの文脈などでは、個人が発達するのは、集団から疎外される場合に限られてる。 個人的嗜好も集団の影響下にあることが多い。』 『これまで何度も書いてきたように、そもそも個人と言う概念が希薄だった。 個人と言う言葉そのものが、集団から疎外され、集団と対立するものとして始めて浮かび上がってくるものなのだ。 それは、きっと異質な他者という存在を、歴史的に意識せずにすんできたということも大きいのだろう。』 |
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この種の学び方は、実に難しい! |
----- 学びについて ----- |
Rudolf Steiner | |
学びとは!
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 欠陥を避難する事によって学ぶのではなく、欠陥を理解する事によってのみ学ぶ事が出来るのです。
しかし、理解する為に不満をすっかり排除しようとするならば、やはり進歩はないであろう。
ここで重要なのは一面性ではなく、魂の諸力の安定とバランスなのです。 |
休息(息抜きコーナー) |
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≪ クリック : 地球を旅した時に撮った人々や建物、風景の写真です。 |
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Rudolf Steiner
☆ シュタイナー思想 / 人智学 ・ アントロポゾフィー |
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精神(霊)科学 Geisteswissenschaft / Anthroposophie | |
精神(霊)科学 ★ アントロポゾフィー(人智学)とは、ドイツ語 ★ ギリシア語のGeisteswissenschaft ☆ Anthroposophie という造語で、 Geist(霊・精神) + Wissenschaft(科学) ☆ Anthropos (人間) + Sophia (智恵) を結びつけた言葉で、 ”宗教の世界観”に委ねていた霊的事象や物質界とは異なる世界(一般的には目にしない世界)を学問として捉えようとする、実によい言葉だと思います。 |
≪ ”考” ≫ 快楽・苦悩、欲望 --- 肉体が求める快楽、欲望その先にある苦悩! |
Rudolf Steiner
ルドルフ シュタイナー | |
■ シュタイナー思想で学ぶ ■ |
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≪ 快楽・苦悩、欲望 ≫ ルドルフ・シュタイナー |
”物質体”と”快楽・苦悩、欲望・情熱の担い手であるアストラル体”とを比較してみよう。
その場合、快楽と苦悩に対して、アストラル体の内部では何という不確かさが支配しているのだろうか。 高次の人間の目標に背いて、なんとしばしば意味のない欲望や情熱が、そこではうごめいていることか。 アストラル体は、物質体の中に既に見いだされる調和と内的完全性を獲得するところに、ようやくさしかかったばかりなのである。 同様に、エーテル体は、そのあり方においてはアストラル体よりも完成度は高いが、物質体よりも不完全であることを示すことができるのである。 同じような考察から、人間の本質の本来の確信である”自我”は、現在ようやく進化の始まりの状態にあることが明らかになるであろう。 というのは、この自我は、人間の本質の他の構成部分を変化させ、それらの構成部分を自我自らの本性の現われであるようにするという課題を、すでにどれほど達成しているであろうか、---- 殆ど達成していないのである。 このような仕方で、すでに外的な観察にとって明らかになるであろう事柄を、精神科学に通じたものは、さらに他の事を通して鋭く洞察する。 例えば、物質体が病気にかかる場合を例に挙げることができるであろう。 その場合、精神科学は、病気の大部分がアストラル体における倒錯や錯誤がエーテル体に伝わり、エーテル体を通して物質体の調和そのものを破壊することを因るものであるという事情を明らかにしている。 ここでは、示唆するだけであるが、多くの病気の諸経過の深い関連、真の原因は物質的/感覚的事実にのみ限定する科学的考察では及ばないところにある。 その関連は、たいていの場合、アストラル体の損傷はその損傷が起きた人生においてではなく、次の人生において初めて、物質体の病的な現象をもたらすというようなあり方で明らかになる。 したがって、ここで問題になっている法則は、人間の生の繰り返しを認めることの出来る人にとってしか意味を持たないのである。 しかし、そのような深い認識についても何も知ろうとしなくとも、人間が物質体の調和を損なう享楽や欲望に余りにも多く没頭することは、通常の人生の考察からだけでも明らかであろう。 享楽・欲望・情熱などは、物質体の中にではなく、アストラル体の中で作用する。 しかし、アストラル体は、多くの点でまだ完成されていないで、物質体の完全性を破壊することがあるのです。 Rudolf Steiner |
India/Rishkeshで出会ったSadhu(修行僧)の言葉です。
ムクティ(解脱)を得て、苦しみ多い現世への輪廻から開放されたい。 |
≪ ”考” ≫ 幸/不幸 --- この世での”尊厳、自由、平等、貧富、差別”! |
幸福というものが、同時に 不幸の源になっている。
Johann Wolfgang von Goethe |
≪今生での肉体!身体!≫
生まれた時から、或いは人生の途中で、事故や病により、身体が不自由になり、動かなくなる。 そして、喋れなくなる。 逆に、走る事が速い、遠くにボールを飛ばせる等などで名声や富を得る! 肉体の優位さや喋くりで名声や富を得る! ・・・・・・・ だからなんだと言う人もいる! 誰でもが、 時には、旨いものが食いたいと思う! 時には、異性にももてたいと思う! 時には、・・・・・・・・・! 程ほどの”金”は欲しいと思う! しかし、才能や容姿で優劣がつく。 ・・・・・・・ だからなんだと言う人もいる! スラムに生まれる人がいて、裕福な家に生まれる人もいる。 生んでくれた親や環境に感謝し、生んだ親や環境を憎む人もいる。 生んでくれた親を知らない人もいる! 自分の親や自分の生んだ子を殺す人もいる! 自ら命を絶つ人がいて、生きたいと神に祈る人もいる! 戦時下に生まれる人もいて、人を殺さなければならない人もいる。 拷問や辱めを受ける人もいる。 そして、自分の意思に反して、病や戦でこの世を去らなくてはならない人がいる! 人生って!・・・・・ と、思う時がある。 誰でもが、 時には、楽しく笑いたいと思う! 時には、ゆっくりといい夢を見ながら寝たいと思う! 時には、・・・・・・・・・! 程ほどの”もの”は欲しいと思う! しかし、肉体!身体!・・・・・・・ 生まれた”場や時”によっても優劣がつく。 結果、自分の意志とは関係なく、心や考え方、顔つきまでが変わってくる。 人間の尊厳、自由、平等、無差別 などと言われても、それは何処でのことかと思ってしまう。 ・・・・・ だからなんだと言う人もいる! 今生では、努力にも限度がある。 ・・・・・ 不条理! 神などいないと思える無情感と無常感! 社会という魔物! 人間の肉体、身体! 争い、差別! そして、おのれの罪深き行為! 人生って!・・・・・ と、思う時がある。
私は、資本主義社会や物質主義の価値観、権威的呼称や上下関係・身分関係呼称で呼ぶこと/呼ばれることを嫌っていたつもりですが、実は、その渦中で川の流れに逆らうことなく、甘んじた人生を送ってきました。 ・・・・・ ”上辺だけの建前人生”を送ってきました。 我が行動・言動 > 存在! ある方には”不幸”の一因になっていたのかもと思うと、反省しきりです!
生きるために、生活のためにしてきたこと! ・・・・・ 人生!って、なんだろうかと思う時がある。 今生! / 我が人生! 辛くて心が挫ける時がある。 - 涙が枯れてしまう時もある。 |
我々は、幸福も不幸も大げさに考えすぎている。 自分で考えているほど幸福でもないし、かといって決して、不幸でもない。 |
パルザック |
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Rudolf Steiner
ルドルフ シュタイナー | |
■ シュタイナー思想で学ぶ ■ |
≪ 幸/不幸 ≫ ルドルフ・シュタイナー |
このような分野では、人生を真剣に深く考察するたびに、さまざまな謎がどうしても湧き出てくる。
一方では貧困と悲惨の境遇に生まれ、わずかな才能しか授けられていない為に、誕生の際に与えられたこれらの事実によって、惨めな生活を運命づけられているように思われる人がいる。
他方では生まれた時から申し分ない環境の下で大切に育てられ、抜きん出た才能を発揮し、実り豊かな満足の行く生活を送る素質のある人がいる。 このような問題に対して二つの対立する考え方が見られる。
一つは、感覚が知覚できることがらと、感覚に基づく悟性が理解できることがらとが頭にこびりついていて、そこから離れようとしない考え方です。
ある人が、幸福な境遇に生まれ、他の人が不幸な境遇に生まれると言う事に、この考え方は疑問を抱かないのである。 この考え方は「偶然」という言葉を用いるつもりはないとしても、そうした事を生じさせる何か法則的な関連を想定する事は考えないであろう。 そして、素質や才能に関しては、このような考え方は両親、祖父母、そして更に以前の先祖代々から遺伝されたものをよりどころにするであろう。 この考え方は、人間自身が自らの誕生以前に自分の先祖代々の遺伝系列とは無関係に体験し、自分の素質や才能を形成してきた霊的な諸経過の中に、その原因を求める事を拒絶するだろう。 もう一つの考え方は、このような理解では満足を感じる事はない。 この第二の考え方は、現れている世界においても、ある特定の場所やある特定の環境で何かが生じれば、原因があってこそ、それが生じると言うであろう。 多くの問題に、人間がその原因をまだ探求できていないとしても、原因は存在するのである。 アルプスの花は低地では育たない。 アルプスの花の本性には、その花をアルプスの地方に引き合わせる何かがある。 同時に人間の内部には、人間を特定の環境に生まれさせる何かが存在するはずである。 ・・・・・・・・・ 中略 ・・・・・・・・・ 内面にかなり苦しい感情を呼び起こすようなことが、ある人の身に起きたとする。 その人はそれに対して二通りの態度を取る事が出来る。 その出来事を苦しい思いをするものとして体験し、苦しい感覚に没頭し、それどころか、ことによると苦しみの中に沈んでしまう可能性もある。 しかし、別の態度を取る事も出来る。 実際、私自身が前の人生で私の内部に私をこの出来事に遭わせる力を形成したのだ、私が自ら、私にこのような苦しみを与えたのだ、と言うことが出来る態度である。 そして、このような人は、更にそうした考えをもたらすあらゆる感情を、自分の内部に呼び起こす事が出来る。 当然の事であるが、感覚や感情の活動がその様な状態になるためには、そうした考えをこの上なく真剣に、ありとあらゆる力で体験する必要がある。 ・・・・・・・・・ その事によって、そうでなければ偶然としか認められないようなできごとの必然的な本質が明らかになる。 Rudolf Steiner |
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アルフレッド・アドラー 人間の原動力は「優越を求める心」でしかない。 |
※ アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)
オーストリア・1870・2/7〜1937・5/28 アドラー心理学 ( 個人心理学-Individual Psychology ) と呼ばれる心理学の創始者で、ユングやフロイトに並び称されるオーストリアの心理学者で精神科医。 参考書籍には、「 アドラー心理学の入門書 ”嫌われる勇気” 」 岸見一郎、古賀史健著/ダイヤモンド社があります。 |
人生!? |
人間が不幸なのは、 自分が幸福であることを知らないからだ。 ただ、それだけのことなのだ。 |
ドストエフスキー |
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