A.A.fromnow Human Report - Rudolf Steiner Prologue NO3
シュタイナー(顔イラスト)
ルドルフ シュタイナー
Prologue NO3
シュタイナー(顔イラスト)

☆ Rudolf Steiner ☆
BuddhaGaya/チベット僧
Since 1991
A.A.fromnow Human Report - Rudolf Steiner


シュタイナー(顔イラスト)/作成・筆者
・・・ ルドルフ・シュタイナー ・・・
≪シュタイナー思想≫
人智学 ・ アントロポゾフィー

since 1991
解釈!



シュタイナーは何故に、難しいすぎる叙述、誤解されるような叙述、”なんだかな〜”と思わせるような叙述、読解力のない人  或いは、私みたいな馬鹿もんは近づくなとも思えてしまう叙述に終始しているのだろうか?
それ故に、巷間、シュタイナー書籍を読んでいる人・シュタイナー思想を学び理解しているかのような人は、 ”凄い・偉い・知識人 または、奇人・変人、カルト的な宗教がかった人達”のような見かた・括りになるのではと思ってしまいます。
・・・・・・ どちらにしても、よいこと/よい状況だとは思えない。
”心の学び”でもある精神科学! (と、私は思っています。)  ・・・・・・  率直に人の心に働きかける/うったえる言い回しや言葉で表現できなかったのだろうか?  などと、単純な私は考えてしまいますが、ルドルフ シュタイナーには深い読みがあったようです。


シュタイナーは、下記のように述べています。

ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner
神智学と神秘学は、難しい表現による文体に同意して読んでいく読者の善意を前提とする書物として広く普及した。 私は全く意識的に、誰にでも分る叙述ではなく、正しい思考の努力によってしか内容の中に入っていけないような叙述に努めた。
私はこれによって、読むこと自体が霊的修練の始まりになるという性格をこれらの本に刻印したのである。 こうした読書に必要とされる冷静で慎重な思考の努力は魂の諸力を強化し、それらによって魂が霊的世界に近づく事を可能にするからである。

正しくは、前記にシュタイナー本人が述べているように、 シュタイナー思想(人智学 ・ アントロポゾフィー )を理解・解釈するのは個々人にありますので、本人が理解・解釈できるまで修練することに尽きます。  然るに、他者の解釈・説明などを読むのは邪道だとは思いますが、あくまでも”参考意見”として捉える分には問題ないと考えています。




ルドルフ シュタイナーからの手紙

下記のシュタイナーの言葉(友に贈った詩)! この手紙からはいります。

正直に言いますと、私には霊的感性が全くありません。
しかし、ただ分からない・遠い世界の表現とは思わずに、理解できないなりに、シュタイナーの見かた・考え方を解釈してみましたので、参考にしてみて下さい。





ベルリンの友へ

人は見る、
この世で作られた目で。
それで人が目にするものは、
こうして人を縛り付ける、
この世の快楽と、この世の絶望に。
それは、そこに生命として芽吹く
すべてのものに、しかし、とりわけ
あの暗き深淵へと
落ち行くすべてのものに、人を縛り付ける。
しかし、
人は見る、 霊性に委ねられた目で。
人が見るものは、こうして人を結び付ける
霊的な希望と、霊性に支えられた力へと。
それは人を永遠の内に根差す
すべてのものに結び付ける。
そして永遠の内にその果実を実らせる。
しかし、
人がその時見ることができるのは
人が内的な目そのものを神から与えられた
霊性の器官と感じるとき。
その器官は魂の焦点により
人間の体の神殿の内で
神々の行為を全うする。
人間は神の最奥のことを忘れている。
しかし、私達はそれを引き上げ、
私達の意識にまで上らせ、光で溢れさせ、
そして、
塵と埃の中から引き上げ身につける─
人の心に神的な炎を。
どうか、稲妻よ、
私達の感覚から作られた家を
粉々にしてくれ。
そこに、私達は知識の上に築かれた
魂の家を建てるだろう、
鉄のように堅く、光で織られた織物の上に。
そして、外部の崩壊と入れ違いに
魂の最奥が立ちのぼってくるだろう。
苦痛は物的な影響力の諸力から
私達の身にふりかかってくるものだが、
しかし、
暗闇が私達を覆い隠す時でさえ
希望は輝き、
そして、
それは、ある日
私達の記憶の中から現れ出て、
ついに、暗闇の後、
私達は再び光の中で暮らせるだろう。
私達はこの鮮明な輝きが
未来の明るさにおいて
私達に否定されないことを望む。
なぜならば、今のところ、
私達は苦しみの内にあり、
それを私達の魂に植え付けていないから。


 ルドルフ・シュタイナー
DEN BERLINER FREUNDEN

Es siehet der Mensch
Mit dem welt-erzeugten Auge,
Ihn bindet, was er siehet
An Weltenfreude und Weltenschmerz,
Es bindet ihn an alles
Was da wir, aber minder nicht
An alles, was da sturzet
In Abgrundes finstre Reiche.
Es schaut der Mensch
Mit dem geistverliehnen Auge,
Ihn bindet, was er schauet
An Geisteshoffen und Geistes-Halte-Kraft,
Es bindet ihn an alles
Was in Ewigkeiten wurzelt
Und in Ewigkeiten Fruchte tragt.
Aber schauen kann der Mensch
Nur wenn er des Innern Auge
Selber fuhlet als Geistes-Gottes-Glied,
Das auf der Seele Schauplatz
Im Menschen-Leibes-Tempel
Der Gotter Taten wirket.
Es ist die Menschheit im Vergessen
An das Gottes-Innere.
Wir aber wollen es nehmen
In des Bewusstseins helles Licht
Und dann tragen uber Schutt und Asche
Der Gotter Flamme im Menschenherzen.
So Mogen Blitze unsre Sinneshauser
In Schutt zerschmettern:
Wir errichten Seelenhauser
Auf der Erkenntnis
Eisenfestem Lichtesweben,
Und Untergang des Aussern
Soll werden Aufgang
Des Seelen-Innersten.
Das Leid dringet heran
Aus Stoffes-Kraft Gewalten,
Die Hoffnung leuchtet
Auch wenn Finsternis uns umwallt,
Und sie wird dereinst
In unsre Erinnerung dringen
Wenn wir nach der Finsternis
Im Lichte wieder leben durfen.
Wir wollen nicht, dass diese Leuchte
Dereinst in kunft'gen Helligkeiten uns fehle
Weil wir sie jetzt im Leide
Nicht in unsere Seelen eingepflanzet haben.


Rudolf Steiner



ゲーテアヌム Rudolf Steiner
1861・2/27 〜 1925・3/30
(享年 64才)
ゲーテアヌム/窓
" Goetheanum "
Ruttiweg 45 CH 4143/Dornach 1
Switzerland

☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆
Geist(霊・精神) + Wissenschaft(科学) ★ Anthropos (人間) + Sophia (智恵)

≪私的解釈≫

上記のシュタイナーの言葉(友に贈った詩)は、 ” 我々が見聞きする世界 ” が、揺るぎのない ”真実 ”であるという驕りに対する憤りや疑問とその明証の問いかけのような気がします。

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近代哲学の祖「デカルト」は、この世界の存在がユメマボロシかもしれないと全てを疑った結果、その疑っている自分自身の存在に行き着き、この存在だけは疑い得ないと考え、有名な「我思う、故に我在り」という言葉を残している。
これが、実存思想・自然科学の基礎になっている、デカルトの「明証性」である。
しかし、シュタイナーは、この根源的真実を捉えていない外的(物質的)思考自体が間違いであると指摘している。
何故ならば、デカルトの「明証性」は、外的要因の ”物質やエネルギー” だけを中心にすえ、内的要因を封印しての結論ゆえに、 この世(物質社会)で創られた”我の思考”と”我の存在” でしかないという考え方で、
○”思考している自分自身の存在”を疑い得ないとする根拠はそれで良いのか?
○デカルトの思考途中での”我の思考・我の存在”は、疑い得ない真実なのか?
○”デカルト的思考”で根源的真実が理解(認識)できるのか? 等など
シュタイナーは、デカルト以降の近代自然科学の落とし穴や疑問について警鐘を鳴らし 且つ、社会状況を愁い!自分が体感し読み取った ”真理 ” を伝えなければならないという使命感が働いたのではないか?

そして、例えるならば、桜やチューリップの花などが美しいのは、通常では眼にしない・見えない土の中の根っこや毛根が、命の源である養分や水分を吸収し、 地上にある花々に送っているから美しく存在できるのです。 通常では眼にしない・見えない部分があるから存在できるのです。 人間も通常では眼にしない・見えない部位に命の源があり、 そこを見ないで人間の進化や人間自身の存在を語るのは無意味である。
・・・・・・・・・・ 何故に、私たち人間は大切な命の源である、その部分を見ようとしないのか?
・・・・・・・・・・ 何故に、その部分からの声を聴こうとしないのか?
・・・・・・・・・・ 何故に、その部分を抜きにして物事を決めてしまうのか? 
未来の希望の為にも、この投げ掛けの言葉が無視されない事を望む! と、述べているのではないでしょうか。


ルドルフ・シュタイナー/蔦 A.A.fromnow/マーク ルドルフ・シュタイナー/蔦

☆ Geisteswissenschaft / Anthroposophie ☆


A.A.fromnow 資料 (シュタイナーと仲間達)


ルドルフ シュタイナーと仲間たち
”真実を見る” / 写真の人、全てが現世にはいない。
まるで遠くの星を見ているよう!


※ シュタイナーは、シュタイナーが体得した”彼なりの事実”のみを述べているのであり、 私が解釈しているような「心の学びのようなこと」を具体的に述べている訳ではありません。  翻訳本にも翻訳者の解釈や気持ちが入り込むように、私の解釈にも、”こうでありたい”との思い(気持ち)が表現されているかもしれませんので、・・・・ その点を留意してお読み下さい。

■ ■

今回の特集は、今まで(1991〜2013)のものとは異なり、私なりのシュタイナー思想/人智学の解釈・説明を少なくした”資料編”として纏めてあります。 しかし、一応・精神科学の説明やシュタイナー思想/人智学の”理念”*”ベース”に宿る精神 ・ 基軸”などを私なりの解釈で簡単に説明しておきますので、参考お読み頂けたら幸いです。
尚、私の個人的な考え方も少しだけ、各資料編の巻末の”筆者の独り言コーナー”に記載しています。
・・・・・・・・・ 暇つぶし程度のものですが、宜しかったら、最後までご覧下さい。


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※ 参考として、シュタイナー関連以外の人名や思想・書籍などを記載していますが、横道にそれすぎるといけませんので詳細は記載していません。 興味がわきましたら是非突っ込んで調べてみて下さい。


ルドルフ・シュタイナー
ルドルフ・シュタイナー/第二ゲーテアヌム ルドルフ・シュタイナー/第一ゲーテアヌム・ガラスエッチング ルドルフ・シュタイナー/ドルナッハ・シュタイナー建築 ルドルフ・シュタイナー/オブジェ ルドルフ・シュタイナー/夜のゲーテアヌム


≪私的解釈≫

”自然科学” <・> ”精神科学”

デカルトの方法論〈自然科学〉は、文明を驚く勢いで進化させ、物質的な豊かさを人々に与えてきた。 この点については誰もが認めるだろうが、 時代はその進化の過程で振り落としてきたモノに着目し始めています。
その”自然科学”は、人間の外面/表象を取り巻く、物質やエネルギーを対象にして、「生物」や「生活」等に視点を当てている学問で、 振り落としてきたモノを主軸にしたシュタイナーが言うところの”※精神科学”は、人間の内面/根源的形成に迫り、究極的な霊や魂を対象にして 「生命」や「人生」 等に視点を当てている”学問”だと思います。

しかし、正直に言いますと ・・・・・・
私は、魂の道徳的な状態がふさわしい段階に達していないのでしょうか、幾ら努力(学び・修練)を続けても、 シュタイナーと同じような景色が見えたり・体験できたりはしていません。
ですから、”学問”といっても、宗教的に”信じる/信じない”の方法論でしか理解できない部分が多々あります。 ----- ですから、そのような立脚点でのリポート/特集になってしまっています。

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難しいですね、この種の学びや修練は!
----- やはり、” 信じる者は、救われる ” でしかないのでしょか。

≪ ”当方見聞録” ≫


神秘学/精神科学の世界を、外側から見た人々の感情・感想とは!

魑魅魍魎の世界!
非科学的で根拠のない世界!
宗教的・カルト的な世界で、特殊な思考の人々の集まり!
又、科学的なものは否定し、一方向に傾倒している世界観の人々の集まり!
オーム真理教の人々に似ているような世界観をもつ人々の集まり!
近づかないほうがよいと思っている世界観の集団! 等々


☆ ☆ ☆

---- 当然! この種の集まりの方々にも、問題点や反省点が多々あるように思えます。
しかし、宗教的になってしまう神秘学/神秘思想の学びですが、自然科学サイドの見解のみで”魑魅魍魎の世界!” と切り捨てるだけで良いのだろうか?
神秘学/精神科学を学ぶ側も批判的に見る側も冷静に判断/解釈をしなくてはならない時に来ているのではないか、 ---- これが特集の思いです!



☆ ≪当方見聞録≫  問題点 / 反省点 ☆


私の体験では、神秘学/精神科学の集まりの雰囲気や学び方には違和感を感じました。
そして、私の解釈や理解の仕方との違いも感じてしまいました。
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神秘学/精神科学を宗教として考えているのなら別ですが、科学/学問として捉えるならば、 神秘学/精神科学を学ぶ側も、内側の論理で固まるだけでなく、広い視野に眼を向け、垣根のない/拘束のない思考で学び・集まるべきではないかと思っています。



ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner
人生において霊的な原因となっていることについて語る人々の側が、少なからず混乱に貢献していることは、否定してはならない。 そのような人々によって、多くのことがらが、あまりにも大雑把に曖昧に語られている。



≪私的解釈≫
精神科学

一般的には”精神科学”というと、自然科学の分野で物理的な人間の精神世界を対象としたもので、精神(心)は、肉体の一部(脳科学)として考察しています。 そして、自然科学の世界では考えられないようなアブノーマルな現象/異常現象などについては切り捨てることで成立してきました。 ・・・・ ある意味でそちらの分野は”宗教”に任せました。
そのようなことから、人間精神の最も重要で且つ創造性に富んでいる部分も切り捨てる結果になっています。  しかし、科学というからには、アブノーマルな現象/異常現象(超常現象)なども、馬鹿らしいなどの軽薄な理由ではなく、真摯に説明をする努力/姿勢をもって捉えていくべきだと思っています。 
通常では見えないものが見えたり、超常的な現象を感じたり・予見できたりする。 このような人の精神(心)は、異常(病気)であるか或いは何らかの脳内現象というのが、自然科学を基盤にした考え方です。  しかし、デカルトの呪縛内での”精神科学”では、いつまでたっても、堂々巡りし、人間根本のテーマ/答えには近づかないように思えます。
本来の”精神科学”のあるべき姿は、そのような人がいる或いは 自然科学から見たら、アブノーマルな現象/異常現象(超常現象)なども肯定的に考えることを前提に、且つ <知覚>と<概念>の融合!/<科学>と<宗教或いは宗教的表象>の融合! も念頭に、前に進むべきだと思っています。
それでこそ、その先にある ”人間”とは何なのか?/ ”私”とは何なのか?” に迫れるような気が致します。
・・・・・・・・・ それでは、シュタイナーの「精神科学( Geisteswissenschaft )」とは?


A.A.fromnow 資料

≪私的解釈≫
シュタイナーの精神科学=霊科学
☆ Geisteswissenschaft ☆

ルドルフ・シュタイナーの主張する精神科学=霊科学(Geisteswissenschaft) は、たんなる感覚や感性による経験科学ではなく、シュタイナーの言う ”Geist” は、人間の肉体に宿った「精神」や、 時代や民族が共有する「精神」ばかりでなく、真理としての「精神」に近づくために「霊・魂」にも思考や体験が及び、 その踏み込みにより、人間の内部に存在している健全な”予感”を導き出し、現代人の迷信や勘違いしている霊的・魂的思考を、正しく拡張し働く”魂の活動(思考)”に戻して、 精神・生命・肉体に潜む超感覚的認識力を、現代人の智恵により変化対応(時代に即した)させ、新たな(正しい)認識へと導く手法(修練)の ”科学/学問 ” ではないかと考えています。
又、自然科学の進歩と物質文明の流れがもつ必然には、シュタイナー自身は異論は無かったようですが、その結果として間違った豊かさの状況が、人間のもつ本来の力を歪めていくことに警鐘を鳴らし、5965回の講演と30冊を越える著作で人々に伝えています。  その分野は、教育・農業・医学・建築など広範囲にわたります。

尚、精神科学≒超感覚的認識/霊的認識のことで、シュタイナー思想/アントロポゾフィー・人智学とは、この精神科学/神秘学を基にした思想・学問です。
精神科学は、オカルティズム/オキュルティスム(霊学、神秘学)ともよばれますが、所謂 ”カルト思想”とは違います。 私は Geisteswissenschaft を、”霊学”というと今日の日本社会では誤解されやすいので、 ”精神科学”という言葉を、この特集では使っていますが、シュタイナー思想は文字通り、 Geist=”霊/神秘”が基軸思想ですので、巷間・私とは”異なる角度/方向” で解釈している人々がいるのも事実です。
私は、どちらが正しい・間違っているという事ではなく、ウイリアム・ジェームズの法則的に捉えています。


≪注釈≫ ウイリアム・ジェームズ(1842〜1910)/ アメリカの心理学者・哲学者/超常現象の科学的研究者

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シュタイナー思想ですが、心霊主義的思考ではなく「精神的諸現象の経験科学」に基づくシュタイナーの経験(体験)思考で、宗教的ではなく学問的だと捉えています。 しかし、この分野が認識できない我々(私)には、現時点では答えなど出ない部分が多くあるとも思っています。 その点からしても、一方的に偏り信じこむのではなく、今の科学的思考も大切にし、ニュートラルな気持ちで・軽やかに、且つ ゆっくり時間をかけて”生きる”を探究する”学問”だと考えます。
しかし、この”学び”は、世間的・物理的な常識などを超越した”学問”ゆえに、自然科学の恩恵で蔽われた現状(文明社会)では、答が出ない、或いは足踏みをしてしまい前に進めないのは常道で、学びの”歩”を進めるためには、 人間本来の深いところの共通した部分、普遍/不変な部分で思考し 且つ、常識などで纏っていた服を、一度脱ぎそして脇に置いてから”学ぶ”ことを薦めます。 自分に合わないようでしたら脇に置いた服を、再度 纏えばよいのです。

また、我々現代人の唯物論/物理主義にどっぷりと浸かった精神は、物理的には見えない世界や霊的・魂的世界などの分野にはアレルギーを生じ、硬直し、その思考に胡散臭さと疑惑を感じるようになっているのも事実です。
その心/精神を解すには、言うなれば、硬直している物質的な心の囁きも無視せずに、”幅広い知識”をゆっくりと 且つ、是々非々のスタンスで、より多くを学ぶ事ではないでしょうか。
人間誰しもが、一つの事(思想・考え)に妄信したり、或いは偏った方向に進むと、周りが見えなくなる傾向があるようですので、 シュタイナーの思想・考え方も含め、どのような思想・考え方を”学ぶ”時にも、 バランスよく平行して多くの考え方や他の思想についても素直な気持ちで”学び”、否定ではなく対比検証できる”心の余裕/心の広さ”も必要ではないでしょうか。 又、時には反論や否定的な考えにも、冷静に耳目を傾ける意識(智恵)が必要になる時もあると思います。


「 だけど、シュタイナー思想/アントロポゾフィー・人智学は違う!」 との思いは、私のスタンスとは異なります。  ・・・・・・・・・・・ この世は、解らない事だらけの「藪の中」!



≪参考 1≫
”精神”のことを英語では「Spirit」、ドイツ語では「Geist」と言います。
では、”霊”のことはどうか?
英語では「Spirit」、ドイツ語では「Geist」といい、”精神”と”霊”は同じ言葉でも表され、日本語のように明確には分かれていません。 ですから、”Geisteswissenschaft” を”精神科学”と訳す人もいれば、”霊科学”と訳す人もいますが、どちらも正しいのです。 
日本語では、”精神”と”霊”を同じ言葉や意味合いで表現することはありませんが、欧米/キリスト教文化圏では、私たち日本人が考える”精神”と”霊”のようには考えていないのです。
この違いを認識して、シュタイナー叙述を読み進めないと途惑う事もありますので、注意が必要です。
因みに、肉体/死体についても、私たち日本人が考える、仏教的な思いとは異なっています。 
日航機/御巣鷹山事故の際、現場検証での被害者のご遺体に対するアメリカと日本の対応の違いには驚かされた思いがあります。 その違いについては、当時の新聞や山崎豊子氏の大作「沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇」にも詳しくでています。
欧米人のキリスト教をベースにした文化や思考と日本の文化や思考の違いを理解して読み進めて下さい。

≪参考 2≫
近代神智学を創りあげたのは、ヘレナ・P・フラヴァッキー(ロシア系ドイツ人)で、後に神智学協会創始者の一人になっています。
シュタイナーは、1902年にその神智学協会ドイツ支部の事務局長になっているのですが、1913年に神智学協会は、J.クリシュナムルティをメシアの再来であるとする一派が力を増し、シュタイナーは袂を分けています。  その後に、人智学協会を作っています。
ヘレナ・P・フラヴァッキーも、「 神智学は、”宗教”ではなく”科学”である 」 と述べている。



" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY "
≪ ☆ Geist(霊・精神) - Wissenschaft(科学) ☆ ≫

ドルナッハ シュタイナー彫刻 ドルナッハ


≪私的解釈≫
人智学/Anthroposophie の”ベース”に宿る精神

シュタイナーは、他人の弱点を非難する時には、自分の中の高次の認識能力を失い、その人の長所に心を向けようと努める時には、 自分の中の高次の認識能力が高めるので 事象の中の優れた部分に心を向け、批判的感情を解釈(理解)に変えることが重要だと述べていますが、 そのような事象を理解する為に不満をすっかり排除しようとするならば、やはり進歩は無くなるので、事象の一面性ではなく、 魂の諸力の安定とバランスが必要だと述べています。
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≪参考≫ このことは、心理学(自然科学/医学)でも言われていることです。
カナダの心理学者/マレー氏によると、他者の悪いところばかりが見える時は、他者に原因があるのではなく、自分自身が何か(他者の嫌なところに類似)に傷ついている場合が多く、 無意識的に自分の感情と一致したものに反感や興味が向かうらしいのです。 この場合の対処方法は、他者の良いところを探し心の中で反復していると、その気持ちが自分自身にも徐々に反映し、「ポジティブ」な気持ちに変わるそうです。 この状態を心理学では、「感情一致効果」と呼んでいます。

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更に、「謙虚」・「無批判」・「無裁き」・「無差別」や「真の自由・平等」が、人智学を実践する人にとっての基本のようだ。
そのためには、魂の諸力の安定を基調にして「批判的感情」や「優越を求める心」を自分の内部から、少しずつ除去していくという努力や※ 修練( 高次の進化を目指す為の修練 ) が必要で、 あらゆる事象に「※畏敬」という基本的意向を持ちながら日常生活を過ごし、不測の出来事などにも動揺せずに、「不安」・「いらいら」・「※怒り」の無い心を作る努力/修練が大切のようです。 その集積から、実生活(人生)の中で、「不安」・「いらいら」・「怒り」や「差別」の虚しさを悟り、他者が自分を傷つけ、怒らせ、見下す態度や言葉などを発信しても、その情景や文言が魂に入る前に、浄化する事が出来るようになるそうです。
個々の人間の幸・不幸でさえ、※ 全宇宙の表象と密接な関連があると考え、人間の間違えた認識による感情や願望が、人間を疑惑や絶望へと導き、人生からの逃避へと追い込む場合もある。 このようなことは、人間が生きている全宇宙の進化を妨害するので、人間は、超感覚的世界の確かな諸事実に魂の目を向ける修練を試み、「自然」から与えられた能力と諸力を、 人間の内部(魂)で高次のものへと、変化(覚醒)させることが基本にあるようです。
このようなことを人智学では「※秘儀参入(イニシェーション / Initiation)」と呼んでいます。

また、ある人にとっての辛い事や辛い出来事も、その人にとっては、この世で必要な≪次のステージへ行く為に、自らがその辛い事を乗り超えられると信じ 且つ、乗り越えようと選んできた≫出来事なのだという考え方で、このようなことも、正しく理解し、 魂を高次の意識状態に導く努力/修練をすれば、辛い事が辛いだけではなく、 自らの為になる出来事なのだという事に気が付き、おのずと辛い事などに対する考え方や対応が変わるようです。
或いは、辛い事から逃げようとしたり、目を背けたりしない事のようです。
辛い事からはその時には逃げられても、自らが選んだその辛い事は、必ず先回りして私達を待ち受けているから、逃げないでその辛い事と今 ・ その時に対峙し、 解釈(理解)したほうが良いという考えで、 「自らが選んだこと (当事者にとっては、辛いでしょうが!)」という考え方です。





≪ 凡例 ≫

【註:※修練(霊的修練)】
修練については、下記の≪A.A.fromnow 資料5≫ - "心に残った言葉集" の中に 「講演録」 1914年10月3日の講演第一講"【瞑想/霊的修練】 Meditation"(Dornach) を詳しく記載してあります。 興味のある方はご覧下さい。
【註:※全宇宙】
物理学的宇宙とは異なる、精神科学的宇宙のことですが、シュタイナー思想では同一なんです。 物理主義で育った私の理解力では「宇宙進化論」を含め、この辺になると解ったような解んないような曖昧なスタンスになってしまい、「秘儀参入」が出来ないでいます。
【註:※秘儀参入(イニシェーション : 一般的には成長過程の節目(エポック)/儀礼を意味します。)】
魂が高次の意識状態へ覚醒する事をいう。
高次の意識状態 = 探求に必要な意識状態の間に、通常の生活において感覚の働きによってのみ引き起こされるような体験能力が、魂の内部に呼び覚まされる状態。
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≪参考:イニシエーション≫ 宗教学者の※エリアーデは、「哲学的に言うならば、イニシエーションは実存条件の根本的変革に等しい」と述べています。 又、彼の著書には「シャーマニズム」があり、瞑想についても述べられています。
(註)※エリアーデ : ミルチャ・エリアーデ 1907年〜1986年 / ルーマニアの宗教学者で作家。 世界の種々の宗教思想及び宇宙観を体系的に比較研究した先駆者。著書に「永遠回帰の思想」「シャーマニズム」「世界宗教史」などがある。
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【註:※怒り】  怒り〜>「自我」を 「 ルネ・デカルト的 」 に考えてみました。
医学的には、理性は脳の表面を被っている大脳新皮質の働きによるが、本能や欲望、怒りや恐怖等の情動は、大脳新皮質の下にある大脳辺縁系の働きであり、人間は、理性と情動を連動させることが出来る珍しい動物であるらしい。
この脳の前部・前頭葉(前頭連合野)が巨大化し「自我」という機能を有するようになり自己同一性が保持された。 その結果「死」の恐怖も生まれ、それらの恐怖から免れる方法として『 体が滅んでも、精神(魂)は不滅である 』という考え方が生まれ、宗教などの根本思想となった。 そして、人間が発明した極めて優秀な「心の安定装置」でもあると考えるようにもなる。 この「心の安定装置」/ 宗教での「怒り」の捉え方は、正常な判断力を弱め、自我の弱体にも繋がるので、人間の低次な感情表現と考え、キリスト教では、七つの大罪の一つとしています。  仏教でも、怒りを克服しない人間は「地獄界の精神状態へ導く」と考え、死後最も悪い状態に魂が行く事になるとしています。

※”怒り”に連動する言語には”否定”があります。
”自分の言動・行いを否定された(笑われた!/侮辱された!)” ”自分の宗教・国家・民族・家族などを否定された” など心当たりがあると思いますが、”否定”の先には”怒り”があり、”戦争”にまで発展します。
しかし、日本人の心にある宗教(仏教)には、真理に辿り着くための重要なポイントに”否定”があります。
ブッダは”否定”の先にある真理を見据えていたのでしょうが、仏陀の没後に大乗仏教の一つの学派を率いた”ナーガルージュナ(2〜3世紀頃)”は、この”否定”部分を徹底的に強化した思想を展開していきます。
それゆえ、現在でも欧米の一部では、”仏教”は否定ばかりしている宗教だと、捉えられているようです。
また、否定といえば、キリスト教でも”グノーシス”がそれに近いものがあります。

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尚、ブッダの教えは、現世の多く、いや現世の価値観の多くを否定して、それを原動力にしています。 この思想が日本に伝来して、親鸞(自然法爾)などは、徹底的な自己否定を行い、それによって得られる自己救済(”肯定側”)へと日本的に導いています。 又、”シュタイナー”も述べています。『《前記》 批判的感情を解釈(理解)に変えることが重要ですが、 そのような事象を理解する為に不満(ある意味での否定)をすっかり排除しようとするならば、やはり進歩は無い。』
このように、ある意味での”否定”は、自己救済の必須条件かもしれませんので、人を”怒らせる”からと”否定”を安易に”否定”出来ないものがあるようです。
☆ ・・・・・・・・ 現世での課題!
自分自身の肯定している論理・言動と、それを否定する論理・言動を冷静沈着に秤にかけ、対峙する勇気を持つということ。 更に、他者を”怒り”に導かず・人の尊厳を傷つけずに対応する!  ・・・・ その結果についても自分は怒らない!
”魂の諸力の安定とバランス!” 今生では、私には無理かもしれない。

" IN THE NATURE OF A PHILOSOPHY "

≪私的解釈≫
人智学/Anthroposophie の”理念”

シュタイナーは、精神科学を彼自身の理念に基づき構築し、それを人々に伝えようとしました。 その理念をシュタイナーは、Anthroposophie(人智学)と名づけ、科学(Wissenschaft)と宗教(Religion)と芸術(Kunst)の統合を目指し、「超感覚的世界」、「霊的・魂的世界」、「死後の世界」などの物理的には見えない世界に立ち入り、叙述しています。
又、シュタイナーは、「現実(真実の世界)」がもともとは一つの全体であり、それを<知覚>と<概念>に分裂させたのが人間自身である以上、「現実(真実の世界)」を説明するために必要な要素は、すべて人間の中に見いだされるはずだと考えます。 しかし、人間の「認識」には限界があるとし、 「現実(真実の世界)」を一つの全体として捉えず、 人間に与えられた「この世界(物質世界)」とは別に、 「もう一つの世界(精神的・霊的世界)」があるとする二元論で説明していますので、近代科学の礎になったルネ・デカルトの論理(唯物思想)とは相反します。

更に、シュタイナーは、社会構造に対しての彼自身の理念として、 社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) を 、ドイツ国民に対してアッピールしています。
その中で、人間の社会構造を、「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」の三種類に分け、「精神生活には自由」を、「経済生活には友愛」を、「法的生活には平等」をと唱え、三種を一つと考える社会構造理念/思想 を述べています。

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※ 社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus )
1919年3月に、シュタイナーは「ドイツ国民とその文化界に告ぐ!( An das deutsche Volk und an die Kulturwelt ! ) 」 という論評を発表しています。 その中で、人間の社会構造を、「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」の三種に分け、そのそれぞれが、「精神生活では自由」を、「経済生活では友愛」を、「法的生活では平等」を礎として、各種に独自性を持たせながら、 全体を一つと考える社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) を述べています。
しかし、この時には、シュタイナーが同年の10月に、「社会的精神と社会主義的迷信 ( Sozialer Geist und soialistischer Aberglaube ) 」 という小論文を出し、 唯物主義の迷信を批判したのを含めて、単に現行の経済・政治批判及びマルキシズム唯物批判、社会主義批判などの論調にとられ、ドイツ国民には受け入れられなかったようです。
ところが、遠く離れた日本で、戦前の代表的な右翼思想家で、東京裁判でのA級戦犯容疑者の尋問での奇行が有名な大川周明氏が、「社会三分節化論」を「三重国家論」として紹介しています。 シュタイナーの趣旨とは異なる形で紹介されているとは思うのですが、読んでみたいと思っています。


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≪私的解釈≫
精神科学/アントロポゾフィー・”学びの基軸”について!

神秘主義を基軸に”アントロポゾフィーを学ぶ”こと!

それは、日常生活の中(人生)で霊的・精神的な意識を高めることにより、普遍的な流れ/価値観(霊的・精神的価値観)を認識し、 その下に人間がイマジネーション次元の段階で、表面的な人々の集まりにおいて内面的(普遍的)な魂の集まりに目を向けるようになります。 そして、他者のイマジネーションが意識され、他者の霊的部分への目覚めがインスピレーション次元で起こります。
次のステップで、人々相互が「普遍的な私」を自覚しあい、その認識は、イントゥイションをもとにした一つの基盤/世界に至り、他者のカルマに目を向けながら段階を経て、霊的・精神的世界に行き着くようです。
この様なことが主体的に認識されることによって、一人ひとりの自覚の下に一人ひとりが自己啓発をしつつ、自由に生きる愛の社会を模索するのですが、 それは、一人ひとりの魂の中に目覚めることが重要で、自分自身の意思(他者の意思/強要ではなく)によって段階を昇らなければなりません。  そこで、”修練(メジテーション)”が必要になります。
そして、シュタイナーは、人間は滅びる「肉体」、さまよう「魂」そして不滅の「精神」からなるとし、 たとえ此岸で肉体的障害をもっていようとも、現世の表面的な事象に囚われずに、その人の本質/精神は健全で不滅であることを認識し、 その健全な本質/精神が転生(チャクラ)していくとの考えで、その人の今だけを見るのではなく、その人の”元/前世”を辿り、健全な本質/精神を”来世”に導くために、此岸でなすべきことを育む思想/学問が、アントロポゾフィーのようです。
以上のことでも分かるように、アントロポゾフィーは、日常生活の中(人生)で意識を変革/修練していくきっかけを見出し、普遍的な自己認識にいたる大切さを説いています。
そして、”学び”から得るもの!・変化!とは、霊的・精神的”認識力”の高揚だと考えます。


”アントロポゾフィー学び”の基軸の一つ・≪生・死・再生・カルマ・誕生(輪廻)≫

人間が”現世”で生きているのは、自我・アストラル体・エーテル体・物質体の四重構造の存在によります。
しかし、人間は、いつまでも自我・アストラル体・エーテル体・物質体の四重の存在でいるわけではありません。 いずれ物質体の崩壊による”死”が訪れます。 すると人間は、自我・アストラル体・エーテル体の三重の構成となって、物質界から抜け出ます。 この所謂・死後の世界で、「自我」 が意識を維持しながら数日を過した後、エーテル体の分離が起こるようです。 そして、自我とアストラル体という二重の構成になった人間は、アストラル界に出て、 そこで地上の人生のおよそ”1/3”に相当する期間を過ごします。  その1/3に相当する間に、人間は誕生して以来、生きている時に体験した全ての事柄を、もう一度逆に体験することになります。 それは、死の直前の出来事から始まり誕生までの全てが逆体験になります。 つまり、相手に与えた苦痛や危害的な苦しみを、逆に自身が味わうことにもなるのです。
・・・・・・・ 次の下降の為に必要なことなのですが、身に覚えのある方、否・全ての人間には厳しい”間”になります!
その後、アストラル体の分離が起こり、人間は感情にわずらわされない純粋な霊(Geist)となって、「高次の霊的世界」で過ごすことになり、これには数百年〜千年かかるようです。   その数百年のある時期に、「次の生」をどのような体で、「どのような環境」のもとで過ごすのが「霊的進化のために」最も良いかが決まります。
所謂、 「カルマの現れ(Die Offenbarungen des Karma)」です。 そして時が満ち、再び物質界へ向けての下降が始まり、 途中アストラル界でアストラル体を、エーテル界でエーテル体を、新たに身につけ、その後母胎に宿って物質体を得た後に、前生を忘れた新しい人生が始まることになります。





≪ 凡例 ≫

イマジネーション / 霊的技術・行動
インスピレーション / 霊的思考(想い)
イントゥイション / 霊的直感
メジテーション / 瞑想・霊的修練
エーテル体・アストラル体 / 下記資料編の 「”A.A.fromnow”資料5 」 に記載してあります。
カルマ / シュタイナーは、少し異なる意味合いで使っているようですが、インド・サンスクリット語で「業≫無垢の行為全般」を表す言葉です。
ペルシャ語でインダス河(シンド)沿いに住むという語源のヒンドゥー(ヒンドゥスタン)からインドとなっています。  そこに住む人々は、ヴェーダー(Vedas)の霊魂の不滅やチャクラ(環)/生まれ変わりを信奉し、人は誕生から死までの人生を作為的に変える事は出来ないとし、 与えられた生命を全うすることによってのみ現世の生命体を超越した次のステップへ移行できると考え、最終的には輪廻のサイクルから解脱して”神”の傍に行くことを願っています。
その現世で変えられない前世からの生の”課題”・何代もの過去世で習得できずに引き継がれた宇宙的サイクル(チャクラ)の”課題”を ” カマラブジャ>カルマ ” と言っています。
繋がりは分かりませんが、インドには「カルナァ」という言葉があります。 人が困り果てた時や嬉しい時に心から発する音で、究極的な感情(心)の表現(音)だそうです。 言葉にはならない、ため息だったりうめき声や悲鳴、歓声がそれに当たるようですが、なにか”カルマ”と繋がっているようにも思えてしまいます。

≪ 参考 ≫


Anthroposophie とは、オーストリアのヘルバルト学派ローベルト・ツィンマーマン(Robert Zimmermann 1824〜1898年)が、著作「Anthroposophie (1882年)」で使用した、 ギリシャ語の anthropos (人間) と sophia (智恵) の合成造語で、神智学(Theosophie)とは、ギリシャ語のtheos(神)とsophia(智恵)の合成語です。
そしてオイリュトミー(Eurhythmie)は、ギリシャ語のeus (善い、美しい) と rhythmus ( リズム)の合成語で、 アカシャとは、インド・サンスクリット語の”A-ka-sa,Akasha”のことで、空・宙などを意味し、”宇宙の根本的な霊存在”の意味にも使われます。 又、シュタイナーの代表的な書籍の一つのアカシックリコード(アカシャ年代記)とは、宇宙の源(全体)の記録・生命根源の記録或いは神秘学的には霊・魂根源の記録と言うことになります。

シュタイナー思想の礎の一つともいえる社会三分節化論 ( die Dreigliederung des sozialen Organismus ) は、1919年3月に、ドイツ国民とその文化界に告ぐ!( An das deutsche Volk und an die Kulturwelt ! ) 」 というかたちで発表した論文です。 その中で、社会構造/社会のあり方 を唱えています。 詳細は、前述の通りです。
この十年後の1929年には、世界中の株式が大暴落し、世界経済恐慌が起こります。 そして、日本では、浜口首相暗殺事件を発端に満州事変、井上蔵相暗殺事件・三井財閥團琢磨暗殺事件そして、5・15事件、2・26事件、日中戦争〜1939年には第二次世界大戦が始まっていく時代です。 そのような時代背景での社会構造の変革/「精神の領域」、「経済の領域」、「法の領域」でのシュタイナーの考え・思想ですので、時代背景と共に考え・読んでみてください。


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【 神秘主義 / 神秘思想 】

ヨーロッパの中世及びルドルフ・シュタイナーの生きていた19世紀〜20世紀初頭の頃は、欧米の多くの思想家・哲学者・心理学者などが、メガ宗教の古典主義や教条主義的な思考に物足りなさを感じ、新たな思想・思考を模索し、既存宗教の先にある”もの”を探っていた時代背景がありますので、 その頃のシュタイナー思想以外の「神秘主義的な流れの一つ」も参考に記載しておきます。

≪私的解釈-参考≫

神秘主義の要点を簡単に言いますと、”神と人間”を非対称的関係で捉えている一神教の教義から踏み出して、合わせ鏡のように対称的関係で考えようとするものです。 しかし、東洋の仏教などは最初から”神と人間”は対称的関係で捉えています。  私が今回の特集で感じたことは、宗教(特に一神教)というものは、最終的には神秘主義というカテゴリーに行き着き、東洋的に”心の真髄に迫ること”に重点を置いていくと思っています。 ・・・・ いや、そう願っています!




中世のヨーロッパではキリスト教の種々の会派で神秘主義的思想が起こります。 一例を挙げると、フランスの神秘思想家はベルナール(1090年〜1153年)で、シトー会に入り、クレボーの修道院(禁欲的厳格修道院)を造り、聖書研究や神秘的信仰による思想を確立している。 ある意味では、神秘主義が極端な方向に走り、”キリスト教の汚点”でもある”十字軍”を組織した一人ともされています。



横道にそれますが、・・・・・ ル・トロネ修道院
シトー会というと、12世紀に建てられたロマネスク様式の建築で、フランス/リヨン郊外にある”ル・トロネ修道院”という有名な修道院があります。 この修道院は、余分な飾りは排除した禁欲的空間で、光とベージュの石のみで空間を表現していて、コルビジェをはじめ近代の建築家に多大な影響を与えたとされています。



次に、ドイツの神秘主義思想の代表は、ヨハネス・エックハルト(通称マイスター・エックハルト/ドイツ:1260〜1326頃)で、 人は神の内に生き存在しているという思想を展開したドミニコ会説教師。 キリスト教界からは異端者扱いされているが、後世の神秘主義思想に大きな影響を残しています。 著書には「神の慰め」があります。
そして、ユダヤ教の神秘主義の一つには「カバラ」があり、ゲルショム・ゲルハルト・ショーレム(1897年〜1982年)というユダヤ教の神秘主義思想者などが研究している。 彼はベルリンのユダヤ人家庭に生まれヘブライ大学の教授になっている。 著書には「カバラ書誌」や「ユダヤ神秘主義」などがある。
イスラム教の神秘主義の一つには「スーフィズム」があり、禁欲主義で神との合一を説いている。 名称は、この主義を信じる人達が羊毛(スーフ)の衣服を着ていたことから名づけられたらしい。
この思想については、フランス国立高等研究院教授(イスラム学者:東方神秘思想主義者)/アンリ・コルバン氏(1903年〜1978年)の研究が有名です。
尚、一神教思想の盲点を突き、キリスト教会から異端とされた神秘主義思想 ( 2〜3世紀のアリウス派 ・ 3〜4世紀のネストリウス派等 )の中で、最大の異端は、”グノーシス派”ではないか。
1〜2世紀に南ヨーロッパに広まった宗教思想で、既成の世界の秩序(キリスト教的秩序/当時の真・善・美等)を否定し、厳しい浄化の修行によって神の本質に辿り着くという自力救済を説いた思想。 アジアの宗教思想からの強い影響を受けたこの思想・集団を、正統キリスト教会側は激しく弾圧しています。
ユング(カール・グスタフ・ユング:1875年〜1961年)も、この”グノーシス思想”に注目し、関心を示した。

再度、横道にそれますが、・・・・・
”グノーシス派”の印(マーク)と薩摩藩(島津家)の旗印が全く同じで”丸に十の字”なんです。 
偶然一致の産物だとは思いますが、フランシスコ・ザビエルは、日本に布教にきて驚きはしなかったのでしょうか?
「神学」では、中世の代表的存在は、トマス・アクィナス(イタリア:1225〜1274年)で、アリストテレス哲学を基礎に、理性と信仰の調和を説き、神の存在証明をしょうとしている。 彼はスコラ哲学の大成者で、著書には「神学大全」がある。
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19世紀神秘主義思想の大きなウネリは、シュタイナーの時代より少し前に成りますが、ラルフ・ワルド・エマーソン ( Ralph Waldo Emerson / USA 1803〜1882)を中心に超越主義運動が、アメリカやヨーロッパで起こります。
超越主義 ( トランセンデンタリズム ) とは、19世紀はじめ、アメリカのニューイングランド地方で多かったユニテリアニズムの古典主義・合理主義的思考に飽き足らずに「永遠の魂・霊的世界」 を基軸に物事を考えようとする当時の新しい思想のことで、ロマン主義的でもありました。
1836年9月に同じ考えの人々がジョージ・リプリーの家に集まって哲学・宗教・文学など様々な問題を今までとは違う観点(霊的思考)で話しあいます。 これがトランセンデンタル・クラブ(またはヘッジ・クラブ)となりました。 彼らの考えは、人間の”現状の判断力(作られた感覚)”による認識の限界を「超越」し、 今までの固定化された思想ではなく、自由な想像力と直感によって万物の根源である「霊」を基軸にした思考/世界に参入することを説いている神秘主義の一つです。
現在の「唯心論」が「超越的」という名称を得たのは、もともとはイマニュエル・カントがそういう表現を用いたことに由来します。 カントは、理知の中にはあらかじめ感覚が経験しなかったものは何一つないと主張するロックの懐疑論哲学に答えて、非常に重要な一群の理念や形式は、経験によって生じるのではなく反対にこれらによって経験が得られるので、 こういう理念や形式は精神そのものの直感だと説き、これを「超越的形式」と名付けたのです。


≪補注1≫: 神秘主義 〜 汎神論

17〜18世紀にヨーロッパで生まれた汎神論とは”Pantheism”といい、ギリシア語の”Pan=全て”と”Theos=神”を合わせた言葉です。 この言葉の通りに神即自然(deus sive nature)との考え方で、この世の存在全ては神であると言う一元論的思想です。  この論理は、スピノザ哲学ともいわれ ”Baruch De Spinoza (1632年 〜 1677年)”が説いた論理/思想で、当時の思想家や哲学者・宗教家の間で汎神論論争まで起こっています。
又、この考え方は、当時のキリスト教会からは異端視・無視され、スピノザは無神論者とされ迫害まで受けています。  それは、宇宙の存在も自然や人間の存在も”神”であると言う事は、逆にたどれば、人間も”神”であると言う事になるので、キリスト教会としては受け入れられなかった訳です。
しかし、この論理/思想は、ヘーゲルやゲーテなどが理解を示し、ゲーテは「私の立ち位置と同じ論理/思想である」と言っています。

≪補注2≫

神秘主義の形態や宗教・東洋思想・哲学・心理学などに関心を持った人々が集まった会議!
「エラノス会議 / 現:エラノス倫理会議」といい、1933年のオランダ人のオルガ・カプティン女史が発起人になりユングなどが中心に始まった集まりで、現在も継承されているようです。


【 唯物論 / 物理主義 】

”身体”のみが現実であり、”心”は”身体”に起因すると言う論理。
近代自然科学思想の祖「デカルト」は、精神や生命の問題を除外し、物質やエネルギーに焦点を当てた思想的取り組みをして、 近代自然科学思想のスタートラインを引いてくれた功績は、誰もが認めるところであります。 
しかし、私には、精神世界や生命の神秘と自然科学を分離させ、無機的・機械的に事象を判断しょうとする論理には疑問が残ります。 良かったのか悪かったのかは別にして、デカルト以降の社会は、物質世界(現代文明)を推進し、精神世界を片隅に追いやってしまいました。


A . A . fromnow Human Report - Rudolf Steiner / Prologue NO2

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